東京歴史さんぽ その12

東京歴史さんぽその12は護国寺界隈です。
 
     
雑司が谷旧宣教師館
 
   
明治40(1907)年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもので、この地を拠点に、太平洋戦争直前までの約30年間布教活動を行っていました。
建物は豊島区では最古の近代木造洋風建築で、区の景観重要建造物に指定されています。
(所在地:豊島区雑司が谷1-25-5)
      
清土鬼子母神堂
     
雑司が谷鬼子母神に堂に祀られている鬼子母神像が、永禄4(1561)年に山村丹右衛門によってこの地(当時の地名は雑司ケ谷村小名清土)の井戸近くより掘出されたと伝えられており、清土鬼子母神として知られています。
写真は左から本堂、雑司が谷七福神のひとつである吉祥天像、文政6(1823)年に建てられた道標で、「これより右みのぶ山ひながた七面堂きしも神出現道」と刻まれています。
(所在地:文京区目白台2-14-9)
 
      
  三角井と芭蕉句碑
「星跡の清水」とも呼ばれるこの井戸は、鬼子母神像を洗った井戸とも伝えられています。
井戸の手前左には、文化9(1812)年に松尾芭蕉が詠んだ「此道に出て涼しさよ松の月」と刻まれた句碑(涼月塚)があります。
 
      
腰掛稲荷神社
   
三代将軍徳川家光公が鷹狩の際に、当地にあった切り株に腰を掛けて休息し、そばにあった祠に参拝したとのことで、里人が社殿を築いて「腰掛稲荷」と名付けて崇拝したといわれています。
(所在地:文京区目白台3-26-1)
        
  菊花石
社の後ろにあるこの岩は、岐阜県本巣郡根尾村より産出された岩石で、切断された岩の表面に菊の花のような文様が現れることからこのように呼ばれており、近年庭石等で珍重されています。
 
       
護国寺
 
文京区大塚にある地下鉄有楽町線護国寺駅を降りてすぐのところにある護国寺、正式名称は神齢山悉地院大聖護国寺といい、真言宗豊山派のお寺で、天和元(1681)年に、五代将軍徳川綱吉が、母桂昌院の願いを受けて、幕府所管であった高田御薬園地に、上野国の大聖護国寺住持であった亮賢に建立を命じて創建されたもので、琥珀如意輪観世音菩薩を本尊とする幕府の祈願寺として栄えていました。
 
     
   
仁王門
門の中央に「神齢山」の扁額が掲げられている仁王門は、切妻造りの八脚門で、正面側(不忍通り側)には阿形と吽形の金剛力士像、境内側には増長天と広目天のニ天像が安置されてます。
写真は左側が正面、右側が境内側です。
 
    
  惣門
仁王門のあるところから不忍通りを東に200mほど歩いたところにあるのがこの惣門です。
正面に「護国寺」と書かれた扁額が架けられているこの門は、五万石以上の大名家の表門と見間違うかのような造りで、元禄時代に建てられたものといわれており、文京区の指定有形文化財となっています。
 
 
     
  からすの赤ちゃんの歌碑
幼いころには誰でも口ずさんだことがある童謡「からすの赤ちゃん」の歌、「お猿のかごや」、「あの子はたあれ」など多くの歌を作曲した海沼実が、昭和16(1941)年に作詞まで手掛けた数少ない作品の一つです。
 
     
  音羽富士
境内に入って水屋の手前を左に曲がると「富士道」と刻まれた石碑が立っています。
江戸時代に富士山信仰が盛んになった時に多くの富士塚が設けられましたが、この音羽富士は、江戸市中のでも有名な富士塚でした。
現在は「江戸七富士めぐり」で訪れる人も多いようです。
   
 
     
    
唐銅蓮葉形手洗水盤
不老門の手前、参道の両側にあるこの水屋にある水盤は、元禄10(1697)年頃に鋳造されたもので、五代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院から寄贈されたもので、当時発行された江戸名所図会にも描かれているようで、境内で湧水する水を利用する自噴式手洗水盤で当時としては珍しいものであったようです。
 
   
  不老門
仁王門と本堂の中間に建てられたこの不老門は、京都鞍馬寺の門を参考にして昭和13(1938)年に、建立されたものです。
 
     
  本堂
観音堂とも呼ばれるこの本堂は、元禄10(1697)年に幕命により造営されたもので、関東大震災、東京大空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されています。
 
     
  鐘楼
江戸時代中期の建立で、袴腰付重層入母屋造りの形式となっており、梵鐘は、天和2(1682)年に寄進により鋳造されたものです。
 
     
  大師堂
元禄14(1701)年に再営された旧薬師堂を、大正時代に修復して大師堂としたもので、装飾の少ない中世時代の貴重な建造物です。
 
   

吽形像
 

身代わり地蔵尊
 
高さ約2.5mの大仏像
 
象供養碑
              
  大隈重信の墓
 
江戸時代後期の天保9(1838)年に、佐賀藩の石火矢頭人(砲術長)の長男として生まれた大隈重信は、7歳にして藩校の弘道館に入学するも、佐賀の特色である葉隠精神に基づく儒教の教えに反発して退学処分となり、国学、蘭学を学んで、幕末には尊皇派として活躍。
明治時代に入ってからは、新政府の役職を歴任後に自由民権運動に同調して立憲体制の導入を巡る明治14(1881)年の政変で辞任し、翌年には日本初の政党である立憲改進党を設立するとともに、「学問の独立」、「学問の活用」、「模範国民の造就」を謳って現在の早稲田大学の前身となる東京専門学校を設立しました。
政治家としては、外務、内務大臣などを歴任し、内閣総理大臣も2度就任し「民衆政治家」と親しまれ、大正11(1922)年83歳で亡くなったのちの日比谷公園で行われた国民葬では30万人を超す一般市民が参列したとのことです。

因みに民間主催の国民葬は大隈重信の際だけです。
    三条実美の墓
 
天保8(1837)年に武家伝奏などを務めた務めた三条実万の三男として生まれ、尊王攘夷派の公家として活躍するも、文久3(1863)年に発生した公武合体派による長州派と急進派の公家を追放した文久の政変「(8月18日の政変」とも「境町門の変」とも呼ばれています。)で追放され、慶応3(1867)年の王政復古で表舞台に復帰。
右大臣、太政大臣を歴任したのちに明治18(1885)年には内閣制度発足後初の内大臣に就任、明治22(1889)年には黒田清隆の内閣辞任を受けてわずか2か月ではあるが内閣総理大臣兼任を務め明治24(1891)年に55歳で死去しています。
 
      
  薬師堂
元禄4(1691)年に建立された一切経堂を薬師堂として使用していたもので、柱間に花頭窓があるのが特徴的です。
花頭窓(かとうまど)は、火灯窓ともいい、上枠を花形又は火炎形に造った特殊な洋式の窓で、寺社建築・城郭建築などに用いられています。
 
     
  音羽講中庚申塔
庚申塔はよくお寺の境内などで見かけますが、天明5(1785)年の名が刻まれているこの庚申塔は、塔部が台座の上の三猿によって支えられているというちょっと変わった形で、全国でもあまりこの形のものは見かけないようです。
    多宝塔
石山寺の多宝塔を模して昭和13(1938)年に建立されています。
 
     
     
     
   
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