東京歴史さんぽ その13  
   
南谷寺
 
 
目赤不動として知られる南谷寺(なんこくじ)は文京区本駒込にある天台宗の寺院で、正式名称は、大聖山東朝院南谷寺といい、元和2(1616)年に万行律師によって開基されたお寺です。
万行律師は不動明王の信者で夢の中で伊賀の国(現 三重県)赤目山に行くようお告げがあり、お告げ通り赤目山で祈願していたところ、一寸二分ほどの黄金の不動明王像を授けられたといわれており、この不動明王像を持って各地を修行の後に、駒込村の動坂(現 本駒込3丁目)付近に庵を設けて不動明王像を安置しました。
寛永5(1628)年に鷹狩で訪れた三代将軍徳川家光により、それまで参詣者に「赤目不動」と呼ばれていた不動明王像を、目黒不動(目黒区下目黒にある瀧泉寺)、目白不動(豊島区高田にある金乗院)に因んで「目赤不動」と呼ぶべしと命じられ、当地を与えられました。
不動明王像は、目黒不動、目白不動とともに三色不動として江戸の名所となり、明治時代に入って目青不動(世田谷区太子堂にある最勝寺[通称 教学院])、目黄不動(台東区三ノ輪にある永久寺、または江戸川区平井にある最勝寺)を含めて江戸五色不動と称されるようになりました。

寺は日光街道に面しており、門を入ると正面に本堂、右手に不動堂があります。

(所在地:文京区本駒込1-20-20)
   
不動堂と六地蔵
六地蔵
 
   
 
不動堂と不動明王像  
   
源覚寺
 
 
 
閻魔堂
「こんにゃくえんま」で知られる源覚寺、正式名称は常光山源覚寺という浄土宗のお寺です。
寺の創建は、寛永元(1624)年に後に増上寺18世上人となった定誉随波上人によるもので、阿弥陀三尊をご本尊とし、二代将軍徳川秀忠、三代将軍家光の信仰が厚かったといわれています。
寺は江戸時代に何度も火災で焼失していますが、ご本尊やこんにゃくえんま像は難を逃れています。
閻魔堂にある像高100cm余の「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代に運慶派の仏師によって作られたものといわれており、右側の眼が黄色く濁っているのが特徴です。
こんにゃくえんまの名の由来は、宝暦年間に眼病を患った老婆が日々祈願をしていたところ、夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁に自分の片目を上げて治してあげよう」と告げられ、見事老婆の目は回復。老婆は自分の好物であるこんにゃくを断って、閻魔大王に供え続けたとのことです。
以来閻魔王像は「身代わり閻魔」、「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集め、現在でも眼病治癒などのご利益を求めてこんにゃくを供える人が多いとのことです。
(所在地:文京区小石川2-23-14)
 
   
  塩地蔵尊
古来より塩は清めのために用いられており、自分の体の治したい部分に相応する箇所に塩をつけて祈願するととご利益があるとされていました。源覚寺の塩地蔵尊は創建時よりあるものですが、写真で見る通り、塩でお地蔵さんの姿がほとんど見えません。
 
 
 
 
 
  毘沙門天堂
小石川七福神の毘沙門天像が安置されています。
    お百度石
普通お百度石は境内にぽつんと置かれていますが、ここ源覚寺では祠に入っています。
石の横にある案内板には嘉永5(1852)年に建立したと記されており、よくみると石にひびが入ったりしているので、これ以上壊れるのを防ぐためにしているみたいです。
 
        
小石川善光寺
 

 
源覚寺から北に向かい、善光寺坂に入ってすぐのところにあるのがこの善光寺、小石川伝通院の塔頭の縁受院として慶長7(1602)年に創建され、明治時代に入って長野善光寺の分院となったお寺です。
(所在:文京区小石川3-17-8)
 
慈眼院 澤蔵司稲荷  
小石川善光寺と接するように善光寺坂の途中にある慈眼院(じげんいん)は、伝通院の塔頭寺院で元和6(1620)年に創建された浄土宗のお寺です。
言い伝えによると、元和年間(天保年間という説もあり定かではないようです。)に、覚山上人の伝手で伝通院の学寮に入った澤蔵司(たくぞうす)という若い僧が、修行開始後わすが3年という短い期間で、宗義を極めるという非凡な才能の持ち主でした。
ある晩学寮長の夢枕に現れて「「そもそも 余は千代田城内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。
今より元の神に帰るが、永く当山を守護して、恩に報いよう」と告げて、暁の雲に隠れたという。
伝通院の住職は、その後境内に澤蔵司稲荷を祀り、慈眼寺を別当寺としたとのことです。
現在も霊窟(おあな)と称する窪地が境内にあり、稲荷が祀られています。

(所在:文京区小石川3-17-2)
   
  本堂
昭和36(1961)年に総檜造りで再建されたもので、正面の軒下には、2匹の白狐の像があります。
 
 
   
  本堂手前の右に「霊窟おあな」と刻まれた石が置かれています。
この石に沿って歩いて坂を下って行くと、いくつもの窟がありますが、すべて中に入れぬようセメントで固められており、前には祠や狐の置物が置かれています。
   
 
   
善光寺坂のムクノキ
慈眼院を出たすぐのところの善光寺坂の中央にあるこのムクノキは、澤蔵司稲荷の御神木で、幹回り約5m、樹高約13mあり、推定樹齢400年を超す古木です。第二次世界大戦時の昭和20(1945)年5月25日の空襲で上部が焼けたということで、炭化しているところも見受けられるようです。
 
   
伝通院(でんづういん)
 
正式な名称は、無量山傳通院寿経寺または小石川伝通院といい、徳川将軍家の菩提寺として知られています。
寺は応永22年に浄土宗第七祖の聖冏(しょうげい)によって無量山寿経寺の名で開創された浄土宗のお寺です。
寺は、徳川家康が聖母於大の方の遺骨をこの地に埋葬するにあたって於大の方の法号「傳通院殿」に因んで院号を「伝通院」と定められたといい、以後、徳川家ゆかりの子女が多く埋葬されています。
寺は昭和20(1945)年5月25日の空襲でお墓を除くほとんどの建物を焼失しており、右の山門は平成24年に再建されたものです。
下左の本堂は、昭和24(1969)年に一度再建されましたが、現在の本堂は昭和63(1988)年に再建されたものです。
下右の鐘楼は昭和41年の再建で、梵鐘は天保10(1839)年に鋳造されたものです。
(所在地:文京区小石川3-14-6)
   
 
   
指塚
山門から境内に入ってすぐの左側にあるこの塚は、昭和40年代の半ばに、テレビのコマーシャルで、「指圧の心は母心、押せば命の泉涌く」のセリフで有名になった日本指圧協会の会長であった浪越徳次郎が、寄贈したものです。
 
   
法蔵地蔵尊
指塚の隣にあるのが法蔵地蔵尊で、右に観世音菩薩、左に勢至菩薩を脇侍として従えています。
 
   
   
於大の方の墓
於大の方の実名は「大」または「太」といい、享禄元(1528)年に、尾張の国は知多の武将水野忠政の娘として生まれ、14歳で三河の岡崎城の城主であった松平広忠に嫁ぎ、16歳の時に竹千代(後の徳川家康)を出産。
父忠政死去後に、於大の兄信元が、今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、忠政より離縁され実家のある刈谷に帰る。
その後於大は、知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁し、3男3女の子を儲けるも家康との音信は途絶えずにおり、桶狭間の戦い後独立した家康に母として迎えられる。
夫俊勝の死後、於大は剃髪して傳通院と号し、慶長7(1602)年に京都伏見にある山城伏見城において73歳で死去、ここ伝通院に葬られる。
  千姫の墓
慶長2(1597)年に徳川秀忠の長女として生まれ、7歳の時に豊臣秀頼と結婚。大坂夏の陣の大阪城落城の際に徳川家康の命を受けた坂崎直盛により助け出される。
元和2(1616)年に桑名藩主の本田忠政の嫡男である忠刻と結婚、(この際に発生したのが坂崎直盛による千姫強奪未遂事件)1男1女を儲ける。
その後本田家内で長男幸千代、夫忠政、姑達が亡くなる不幸が相次ぎ、江戸城に入って出家し天樹院と号する。寛文6(1666)年に70歳で死去
孝子(鷹司孝子)の墓
慶長7(1602)年に従一位鷹司信房(後に関白となる)の娘として生まれ、元和9(1623)年に三代将軍徳川家光のもとに輿入れし、翌年正式に結婚。
慶安4(1651)年に家光が没した後に出家して本理院と号する。
家光との実質的な夫婦生活は皆無であり(これは家光の衆道耽溺が原因とみられています。)、結婚後ほどなく実質上離縁され、大奥より追放され軟禁状態にあったといわれています。
延宝2(1674)年に72歳で死去
 
   
柴田錬三郎の墓
シバレンの通称で親しまれた作家、柴田(本名 斎藤)錬三郎は大正6(1917)年に岡山県で生まれ、慶應大学に進学。在学中に三田文学に『十円紙幣』を発表。
卒業後銀行員となるも3ヶ月で退職し、日本出版協会に勤める。昭和17(1942)年に招集されて陸軍衛生兵となり、南方戦線に移動中バシー海峡で米軍の攻撃にあい乗艦は撃沈され、数時間漂流後救助される。
戦後本格的な文筆活動に入り、昭和27(1952)年に『イエスの裔』で第26回直木賞を受賞。同年に発表した『真説河内山宗俊』以後は、時代小説を次々と発表し、『眠狂四郎』シリーズが剣豪小説ブームのきっかけとなり、『剣豪作家』としての地位を定着。
その後随筆やエッセイも発表する傍らテレビにも多く出演しタレントとしても活躍し、昭和53(1978)年61歳で死去。
 
   
麟祥院
寛永元(1624)年に、三代将軍徳川家光の乳母であった春日局の隠棲所として創建され、報恩山天沢寺と称していたが、後に春日局の法号をもって「天沢山麟祥院」となる。
寺の周囲にカラタチの生け垣があることから「からたち寺」ともいわれています。
(所在地:文京区湯島4-1-8)
 
   
 
春日局の墓
春日局は本名を斎藤福といい、天正(1579)7年に明智光秀の重臣であった斎藤利三の娘として生まれ、父利三が本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦で敗れて処刑されたのちに、母方の実家稲葉家に引き取られる。
その後三条西家で養育されて公家の素養である書道、華道、香道などの教養を身につけ、稲葉正成の後妻となり3子をもうけました。
福は家光の乳母となるため正成と離婚して大奥に入り、家光が三代将軍に就任した以降大奥を取り仕切り、宮中より従二位叙せられるとともに「春日局」の名号を賜り、寛永20(1643)年65歳で死去。
墓は僧侶の墓に多い無縫塔で、四方に穴のある変わった特異な形となっています。

右の写真は、春日局の名前から名付けられた文京区春日(旧町名春日殿町)にある礫川公園に建つ春日局の像です。
 
 
 
東洋大学発祥の地碑
境内に入ってすぐのところにあるこの碑は、明治20(1887)年に井上円了が東洋大学の前身となる「哲学館」を創立したことから建てられています。
 
   
 
        
       
        
      トップページに戻る       東京歴史さんぽ その14を見る