東京歴史さんぽ その14  
  
 
   
  大森貝墟の碑
 
昭和40年代に勤めていた会社が大森の山王にあった時に、京浜東北線の電車の線路際に、「大森貝墟」とある石碑を見てその存在を知っていましたが、訪れるのは初めてです。
ひは、大森駅から池上通りを大井町方向に歩き、山王口交差点を過ぎて、NTTデータの大森山王ビル横の階段を降りると、京浜東北線の線路際に建てられています。
碑は昭和5(1930)年に建てられたもので、明治、大正、昭和期に理学博士として活躍した佐々木忠次郎の書により『我国最初之発見 大森貝墟』と記されており、下段の台座には『Relicof Omori Shell Mound Discoverd by Professor Edw.S.Mose in 1877(1877年エドワード・S・モース教授が発見した大森貝塚)』と刻まれています。


(所在:大田区山王1-3-3)
 
 
      
大森貝塚庭園
 
   
大森貝墟の碑から更に大井町方向に歩くとこの貝塚庭園があります。
貝塚が発見されたのは1887年(明治10年)、標本採集で日本を訪れたアメリカの動物学者であるエドワード・シルヴェスター・モースが、横浜から新橋に汽車で向かう途中、大森駅を過ぎたところで車窓から直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを発見。
政府の許可を受けて、助手ら3人とともに発掘調査を行い、土器、骨器、獣骨を発見したものです。その後の調査で、遺跡から発掘されたのは縄文時代後期のものであることが判明しており、発見された出土品は東京大学に保管されており、国の重要文化財に指定されています。
この貝塚の発見には、シーボルトの次男であるハインリヒ・フォン・シーボルトも関わっていますが、ハインリヒの本業が外交官であったことから考古学研究の期間は短かったようで、あまり知られておりません。
右の写真は、庭園内にあるモース博士像です。
(所在:品川区大井6-21-6)
 
   
 
 
 
庭園のそばにある桐畑地下道は、歩行者と自転車専用の地下道で、踏切や跨線橋を通らずに東海道線の下を通って第一京浜(国道1号線)側に行くことができます。地下道の入口には右の写真のようなタイル画があり、縄文時代の人々の暮らしを想像させる情景が描かれており、地下道内には貝塚で発掘された貝殻の実物を用いて造られた貝塚の断面が再現されています。  
     
九頭龍権現水神社
 
江戸湾に近いこの地であっても、武蔵野台地の東端にあることから昔より湧水が豊富であったようで、ここに住む人たちは飲み水や農業用にこの水を利用しており、貞享2(1685)年に湧水が止まぬよう水神である九頭龍権現 を祀ったのがはじまりとされています。
湧水は「柳の水」と呼ばれ、日照りになると村人たちはここに集まって雨乞をしていたとのことで、飲水すると歯痛止めに効能があったといわれています。湧水は昭和50年ころまで続いていたようですが、現在はポンプで水をくみ上げています。
(所在:品川区南大井5-14-9)
   
 
     
   
     
鈴ヶ森刑場遺跡
 
江戸時代に、東海道の品川宿の手前に、北側の千住宿(現在の荒川区南千住)に設けられた、小塚原刑場とともに、慶安4(1651)年に設けられた刑場で、明治4(1871)年にに閉鎖されるまでの220年間に、10万人から20万人が処刑されたといわれていますが、はっきりとした記録は残っていないようです。
刑場で最初に処刑されたのは、慶安4年に発生した慶安の変の首謀者の一人であった丸橋忠也とされており、丸橋忠也は、反乱計画を密告され、町奉行所によって潜んでいたところを襲われて死亡したが、改めてここで磔にされたといい、その後、平井権八、天一坊そして八百屋お七などがここで処刑されています。
刑場跡は第一京浜そばにある大経寺の境内にありますが、自由に見ることができます。
(所在:品川区南大井2-5-6)
   
 
     
  磔台(左)と火焙台(右)跡

磔台では丸橋忠也などが処刑されており、手前にある石の穴に、丈余といいますから3メートル余りの角柱を立てて、ここに磔て処刑されたといいます。
右側の火焙台では、八百屋お七をはじめ多くの罪人が処刑されており、手前にある石の穴に鉄の柱を立てて縛り付け、足元に置いた薪に火をつけて処刑されました。
 
     
立会川商店街と坂本龍馬像
 
京浜急行の立会川駅を降りると立会川商店街があり、旧東海道に向かって歩き出すとすぐ左側に坂本龍馬の像があります。
何でここにと思って、像のそばにある説明板を読むと、龍馬がいた土佐藩の下屋敷(鮫洲抱屋敷ともいわれています。)が立会川の河口付近にあり、嘉永6年(1853)にペリーの来航による警備のため、土佐藩士の龍馬が警備に加わっていたとあります。この時龍馬は19歳であったとか。

(所在:品川区東大井2-25)
 
 
 
     
  旧東海道(左)と泪橋
 
坂本龍馬像のある所から東に歩くとすぐに旧東海道となります。左の写真は品川宿方向となりますが、反対側を見ると橋があります。立ち合い川に架かる泪橋です。
泪橋の正式な名称は『浜川橋』といいますが、この橋を越えて西に500mほど行くと鈴ヶ森刑場となります。
徳川家康が、幕府を江戸にさだめて入府した慶長5(1600)年ごろに最初の橋が架けられ、小塚原とともに鈴ヶ森に刑場が設けられて以来、多くの罪人が裸馬に乗せられて刑場まで護送されていましたが、身内の人たちは密かに見送りに来て、この橋で涙を流しながら別れていたことから『涙橋』、『泪橋』と呼ばれるようになっていました。
因みに小塚原刑場の所にも思川(音無川)に架かる泪橋があったようですが、現在は暗渠となっていて、その名は交差点やバス停に残るだけとなっているようです。
(所在:品川区東大井2-27)
 
 
     
浜川砲台跡
 
泪橋から立会川河口に向かって歩き道沿いに行ったところに、品川区立新浜川公園があります。ここに真新して大砲が一門おかれていますが、ペリーが初めて日本に来航した嘉永年間に近くに下屋敷のあった土佐藩が、防衛のために砲台を築いたところです。砲台には8門の大砲が据えつけられていたようですが、2004年にその礎石が発見されて、関係者の努力で復元が行われたとのことです。
(所在:品川区東大井2-26)
   
   
海晏寺(かいあんじ)
 
建長3(1251)年、鎌倉幕府の五代執権北条時頼が開基となって創建されたと伝えられる曹洞宗のお寺で、本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出たといわれており、「鮫津」の地名の由来となっているとか。江戸時代は品川御殿山の桜と並んで紅葉の名所となっていました。
寺には、維新の十傑の一人である岩倉具視、ハンセン病の治療で活躍した医師の後藤正直などのお墓がありますがどうやら非公開となっているようです。
鐘楼のそばには大きな砲弾が4発ありますけど、置かれている由来は不明です。
(所在:品川区南品川5-16-22)
   
 
     
品川宿
 
東海道で京へ向かって最初の宿場であった品川宿、日本橋寄りは現在の北品川駅付近から、西はここ青物横丁駅付近まで約1.7kmくらいあったようです。
 
 
 
     
海運寺
 
海晏寺の塔頭として建長3(1251)年に庵瑞林として創建されたのがはじまりとされ、慶長元(1596)年に独立して名を改めたお寺で、正式な名称は、龍吟山海運寺といいます。
千躰荒神を祀るお寺として知られています。
(所在:品川区南品川3-5-21)
   
  
 
  平蔵地蔵
 
鈴ヶ森刑場の番人であった平蔵は、仲間二人と交代で乞食をしていたが、ある日大金のあった財布を拾い、持ち主である仙台藩士に正直に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされて凍死したといい、これを悼んだ仙台藩士が建立したものといわれています。
    えんの行者像
 
飛鳥時代から奈良時代にかけての呪術者である役小角の像ですが、なぜ海運寺に置かれているかの由来は不明です。
 
     
品川寺(ほんせんじ)
 
寺伝では、大同年間(806~810)に弘法大師空海を開山として創建されたといわれており、長禄元(1457)年に太田道灌によって伽藍が建立され寺号を大円寺と称していました。その後戦乱により寺域が荒廃しましたが、承応元(1652)年に再興されて、現在の寺号となっています。

(所在:品川区南品川3-5-17)
   
     
  鐘楼
 
鐘楼にある梵鐘は、四代将軍徳川家綱の寄進によるもので、幕末に海外に流出し、パリ万博(1867年)、ウィーン万博(1873年)に展示され、その後所在不明となっていました。大正8(1919)年に当時の住職が、スイス・ジュネーヴのアリアナ博物館に所蔵されていることを突き止めて返還の交渉した結果、昭和5(1930)年に返還されたもので、「洋行帰りの梵鐘」として知られており、重要美術品に指定されています。
 
     
  銅造地蔵菩薩座像
 
宝永5(1708)年に造られた、江戸六地蔵のうちの第一番の地蔵像です。
現存する江戸六地蔵像のうち唯一頭上に傘を載せていません。
    大銀杏
 
推定樹齢600年といわれる銀杏の古木で、幹回り5.3m、樹高25mあります。
 
        
ゼームス坂
 
JR大井町駅から第一京浜の南品川4丁目交差点に至る坂のことで、もとは浅間坂と呼ばれしる急な坂でしたが、明治時代にこの地に住んでいた英国人のJ.M.ゼームスが、私財を投じて坂を改修して緩やかな坂にしたことから「ゼームス坂」と呼ばれるようになりました。
(所在:品川区南品川5・6丁目)
    高村智恵子終焉の碑
 
ゼームス坂を上る途中右に曲がって少し先にひっそりとあるこの碑の前には、レモンが供えられており、「レモン哀歌の碑」とも呼ばれる高村智恵子の記念碑です。
この地は昔ゼームス坂病院があったところで、入院していた高村智恵子が亡くなったところでもあります。父の死後、実家の没落もあって精神を病んだ智恵子はここに3年の間入院し昭和13(1938)年に52歳の生涯を終えました。
碑には夫高村光太郎が、智恵子の臨終の際に詠んだ「レモン哀歌」が刻まれています。
(所在:品川区南品川6-7-30)
 
 
        
海蔵寺
 
永仁6(1298)年に、時宗の道場として創建されたお寺で、江戸時代には、鈴ケ森で処刑された罪人やき取り手のない遊女などを葬っていたことから「投げ込み寺」とも呼ばれていました。
境内には、通称「首塚」と呼ばれる無縁塔群(右の写真)は、無縁の横死者や、鈴ヶ森刑場で処刑された者などの首も葬られています。
(所在:品川区南品川4-4-2)
   
 
        
願行寺(がんぎょうじ)
 
室町時代の文明年間(1469~87)に、鎌倉・光明寺の観誉祐宗によって創建された浄土宗のお寺で、右の写真の本堂は、江戸時代末期の文化年間(1804~18)に建設されたものです。
境内の地蔵堂に安置されているお地蔵さんは、地蔵の身体を縄で縛ると、苦しみを肩代わりしてくれるといわれるため「しばり(しばられ)地蔵」と呼ばれています。、お地蔵さんの首は取り外しができるようになっており、願をかける人が首をそっと持ち帰って祈願し、願いがかなうと首を二つにして奉納しているということで、地蔵のまわりにはいくつもの首が並んでいます。
(所在:品川区南品川2-1-12)
   
          
海徳寺
 
戦国時代の大永2(1522)年に、この地に住んでいた鳥海和泉守が、京の僧であった日増上人を迎えて創建した日蓮宗のお寺で、本堂は江戸時代中期の寛延4(1751)年に建てられたという、品川区内で最古級の木造建築です。
境内にある右手にバット、左手にボールを持っている地蔵さんは、心臓病を患い14歳で亡くなった少年のお墓で、「ホームラン地蔵」と呼ばれています。
元巨人軍の王貞治氏は新人の頃に、この少年にホームラン王となることを誓ったといい、現役時代に何度も訪れていたということです。
(所在:品川区南品川1-2-10)
   
 
         
     
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