東京歴史さんぽ その15  
  
 
   
   
品川橋と鎮守橋
 
目黒川に架けられた橋で、品川橋(上左)は旧東海道の南品川宿(写真の手前側)と北品川宿(写真の奥側)の境にあることから江戸時代には「境橋」、「中の橋」と呼ばれていたようです。また、江戸時代にはこの地にある荏原神社の天王祭(南の天王祭)と北品川にある品川神社の天王祭(北の天王祭)の祭礼が同日に行われていて、神輿がこの橋で行きあうことから「行合橋(行き会い橋)」とも呼ばれていたようです。
品川橋と接するように上流にあるのが鎮守橋で、橋を渡った先は荏原神社の境内となります。この橋は荏原神社の参道として氏子たちの供出資金によって昭和3(1928)年に完成したものです。
 
     
荏原神社
 
創建は和銅2(709)年といいますから既に1300年を超えた歴史のある神社で、船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と呼ばれていました。創建当時は南品川にありましたが、その後現在地に遷ったもので、現在の社殿は行化元年(1644)に建てられたものです。
現在の名称になったのは明治8年、この地が旧荏原郡にあったことからこの名称としたようです。
(所在:品川区北品川2-30-28)
   
     
東海寺

正式な名称を万松山東海寺という臨済宗のお寺で、寛永16(1639)年に3代将軍徳川家光が、但馬国出石より沢庵宗彭をまいて創建したもので、元禄7(1694)年に北品川から出火した火災により全焼しましたが、5代将軍綱吉と生母桂昌院によってすぐに再建されました。
本堂奥右にある鐘楼の梵鐘は、元禄5(1692)年に鋳造されたもので、品川区の有形文化財に指定されています。
(所在:品川区北品川3-11-9)
   
     
        
 山手通りから 東海寺に入るところにあるビル1階のオープンスペースには安藤広重が描いた品川の風景画のレプリカが置かれています。ガラスケース越しに撮っているので少し見難いです
 
       
東海寺大山墓地

東海寺大山墓地は東海寺の境内とは別のところにあり、東海寺から山手通りを大崎方向に歩き、東海道線のガードを抜けてすぐに右に曲がって、線路に沿って100mほど坂を上ったところの東海寺の旧境内であった所に設けられています。

(所在:品川区北品川4-11-1)
     

沢庵宗彭の墓

沢庵和尚とも呼ばれた沢庵禅師のお墓はここにあります。沢庵漬けの考案者ともいわれる(諸説あり定かではありません。)沢庵和尚のお墓らしく、お墓の入口には名前の刻まれた碑がありますが、墓石は大きな石だけで何も刻まれていません。
 
   
賀茂真淵の墓
 
賀茂真淵は、浜松の神職の三男として生まれ、荷田春満を師として国学を学び、その後江戸で万葉集の研究を行うとともに、国学を講じ、徳川御三卿の田安家の和学御用掛となって徳川宗武(八代将軍吉宗の次男で、松平定信の父)に仕えるとともに、本居宣長、塙保己一ら多くの門人を育てました。
荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人といわれた人です。
   
     
井上勝の墓

幕末に長州藩士の三男として生まれ、江戸に出て蘭学を学び、伊藤博文、井上馨らとともに文久3(1863)年に英国に密航して鉄道、鉱山学を学んで慶応2(1866)年に帰国。帰国後は鉄道建設に関わり、初代鉄道頭として明治5(1872)年に新橋・横浜間の鉄道を完成させ、その後も東海道線などの主要路線の建設に務めるなどして「日本鉄道の父」と呼ばれました。
    利休居士追遠塔
 
「茶聖」として知られる千利休の没後200回忌を前に天明3(1783)年に建立されたものです。
 
 
     
島倉千代子の墓
 
愛称「お千代さん」で知られる演歌歌手で、『この世の花』で歌手デビューし、『東京だよおッ母さん』、『人生いろいろ』など数多くのヒット曲を歌いましたが、平成25(2013)年11月5日に75歳で死去。

訪れたこの日はほかにお墓を訪れるファンの人はおりませんでしたが、墓前は多くの花が手向けられていました。
   
     
近代硝子工業発祥の地碑

東海寺大山墓地への入口のところにあるこの記念碑がある場所は、かつて東海寺の境内であったところで、明治6(1873)年に日本で最初の硝子工場となる興業社が創設されたところです。
興業社は明治9(1876)年に工部省に買収されて官営の品川硝子製造所となって国内の硝子工業の発展に寄与していました。
その後明治18(1885)年には民間に払い下げられjましたが、経営不振となって明治25(1892)年にt解散しました。建物の一部は昭和36(1961)年に、愛知県犬山市にある明治村に移築され保存されています。
(所在:品川区北品川4-11-5)
   
       
品川神社

京浜急行の新馬場の駅を降り第一京浜(国道15号線)に出るとすぐに見えるところにある品川神社は、「東京十社」のひとつとして知られる神社で、海上交通安全と、祈願成就の守護神として源頼朝が文治3(1187)年に、安房国の洲崎明神である天比理乃咩命を勧請して祀り、品川大明神と称したのがはじまりで、関ヶ原の戦いの際に徳川家康が出陣を前に戦勝祈願を行い、その後、祈願成就の御礼を行うなどしたことから、徳川家の庇護を受けていた神社です。
境内入口にある鳥居は、門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」という珍しい鳥居で、杉並区にある高円寺と馬橋稲荷神社にも同様の鳥居があり、併せて「東京三鳥居」と呼ばれています。。
(所在:品川区北品川3-7-15)
 
   
   
   
向かって左側が「昇り龍」、右側が「降り龍」
 
     

                            拝殿
 
                            神楽殿
 
      
  阿部稲荷神社
拝殿に向かって右側にある、境内末社の阿部稲荷神社は、上社(左の写真)と下社(右の写真)があり、上社は「天の恵みの霊」を、下社は「地の恵みの霊」と「霊泉」を祀っています。
   
 
     
板垣退助の墓
拝殿の裏側に回ると板垣退助のお墓があります。
板垣退助は、幕末の天保8(1837)年に甲斐武田の重臣であった板垣信方を祖とする土佐藩士の乾正成の嫡男として生まれた人で、武力倒幕を唱え、戊辰戦争では近衛隊総督として土佐藩兵を率いて従軍、慶応4年の甲斐勝沼の戦いで近藤勇率いる新選組を撃破するなどの戦功をたてていました。明治時代に入ってからは、明治政府の参与に就任するも岩倉具視の間で征韓論争の後に下野し、自由民権運動を展開しました。
明治15(1882)年に岐阜において遊説中に暴漢に襲われ負傷した際に「我死すとも自由は死せん」とい云った言葉が、後に「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることとなったことは有名です。

お墓の右側には元総理大臣佐藤栄作揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」と刻まれた石があります。
   
 
      
浅間神社と品川富士
境内には都内で最大の高さ(18m)の富士塚(品川富士)があり、麓には浅間神社が末社としてあります。
     
 
     

品川富士の山頂からは天王洲方面が一望できます。
 
 
 
      
品川宿本陣跡
 
東海道の最初の宿場町品川宿は、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれたところで、関ヶ原後の慶長6(1601)年に設置されました。宿場は北品川宿、南品川宿、新宿にわかれていましたが、江戸時代中期には南品川宿の本陣が廃止され、ここ北品川宿の本陣だけとなりました。現在は、本陣跡を示す石碑と古ぼけた木製の看板が残されており、一帯は品川区の聖蹟公園となっています。
(所在:品川区北品川2-7-21)
    品川宿一里塚跡
 
江戸日本橋から京都三条大橋までの東海道は里程124里8丁(約488km)あったとのことで、里程を示す1里塚が設けられていましたが、ここはちょうど日本橋から2里目とのことで、一里塚あったようですけど、現在は品海公園の入口に、ご覧のような石碑だけで、目印とて当時植えられた樹木(榎か松)は残っていません。
そういえば、ここで一休みしていた時に出会ったった70歳の男性は、日本橋から歩いた約3時間でここに着き、これから京都まで歩くと話してましたがどこまで進んだのでしょうか。
(所在:品川区北品川1-30)
 
 
     
善福寺
 
鎌倉時代後期の永仁2(1294)年に創建された時宗のお寺で、本堂の軒下には、江戸時代に活躍し鏝絵で有名な伊豆長八の龍の絵があります。軒下ですが、残念なことに殆ど修復されていないので剥がれ落ちている箇所が多く残っているのはわずかとなっています。
(所在:品川区北品川1-28-9)
   
 
      
      
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