東京歴史さんぽ その16
 
 
  
 
   
東禅寺(所在地:港区高輪3-16-16)
 
正式には海上禅林佛日山東禅興聖禅寺という臨済宗のお寺で、日向飫肥藩の二代藩主伊東祐慶によって開基され、慶長14(1609)年に赤坂にて創建され、寛永13(1636)年にこの地に移転、当時は眼前に江戸湾(今の東京湾)が一望できたことから「海上禅林」と呼ばれてました。
寺は幕末の安政年間に西洋人用の宿舎として割り当てられ、安政6(1859)年に日本で初のイギリス公使館がおかれ、初代駐日総領事、公使としてラザフォード・オールコックが赴任しています。
公使館は、尊王攘夷運動の続く中での時代であったため、二度も水戸藩士の襲撃を受け(東禅寺事件)数名の被害を出しています。当時のまま残る書院には襲撃を受けたときの刀傷が柱に残っているようですが、一般には公開されていません
また、寺は日向飫肥藩をはじめ多くの藩の菩提寺となっていますが、一般には公開されていません。

※ ラザフォード・オールコックは、万延元(1860)年に富士登山を行っていますが、記録に残る初めての外国人の富士登山だそうです。
 
昭和46(1971)年に再建された山門には金剛力士像がおかれています。
 
 
 
       

 
 
 三重塔(平成4(1991)年建造)   本堂(昭和8(1933)年建造)   大玄関(明治初期建造)
 
      


瑞聖寺
 
摂津国浅田藩二代藩主青木重兼の開基により寛文10(1670)年に創建された黄檗宗の禅寺で、正式には紫雲山瑞聖禅寺といい、江戸時代には江戸の黄檗宗寺院の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていいました。
左の写真の旧通用門は高麗門形式で建てられており、創建時は目黒通り側にあったものですが、明治時代に寺の東側に移築されており、寺の本堂であり宝暦7(1757)年に建立された大雄宝殿(右の写真)とともに国の重要文化財に指定されています。
寺には江戸で最初の七福神巡りとされる、元祖山手七福神の一つである布袋尊像が安置されています。また宝暦9(1759)年に鋳造されたという寺の半鐘は、現在スイスのジュネーヴにある民族博物館にあるようですが、その移動の経緯は判明していないとのことです。

(所在地:港区白金台3-21-19)
   
 
      

覚輪寺
 
桜田通りが目黒通りと分岐するところの「清正公前」交差点のところにある日蓮宗の覚輪寺、正式には最正山覚輪寺といいますが、加藤清正の位牌や像が祀られているところから、「清正公」または「清正公さま」と呼ばれ、勝負祈願の寺として信仰を集めています。
寺のある場所はかつて肥後熊本藩細川家の中屋敷があったところで、寛永8(1631)年に千葉小湊にある誕生時の18世可観院日延の隠居寺として開山しましたが、弘化2(1845)年の火災で焼失し、現在ある山門は安政3(1856)年に再建されたものです。
(※ 可観院日延は、朝鮮王族の人ですが、文禄・慶長の役の際に加藤清正により日本に連れてこられた人です。)
寺は江戸で最初の七福神めぐりとされる山手七福神のひとつである毘沙門天を祀っており、また毎年5月4日と5日には清正公大祭が行われ、清正公の像が開帳され菖蒲の入った勝守りが授けられるとのことで多くの人が訪れるようです。

(所在地:港区白金台1-1-47)
 
 
 
港区の有形文化財に指定されている山門
 
   
   
本殿・拝殿・幣殿を一体化した権現造様式の清正公堂   清正公堂に掲げられた「破魔軍」とある扁額は有栖川宮熾仁親王の書によるものです。  
   


智光山立行寺
 
白金高輪の駅から歩いて2分ほどの所にある智光山立行寺は、寛永7(1630)年に大久保彦左衛門忠教によって麻布六本木に創建されたお寺で、別名を大久保寺といい、寛文8(1668)年に火災にあったためこの地に移転したものです。

境内には大久保彦左衛門のお墓があり、講談などで出てくる魚屋の一心太助の墓もありますが、太助は架空の人物であるというのが定説のようです。

 
(所在地:港区白金2-2-6)
   
 
     
    大久保彦左衛門の墓


戦国時代の永禄3(1560)年に生まれた大久保彦左衛門は、徳川家の家臣として高天神城攻め、上田城の戦い、関ヶ原の戦いで戦功をあげたのちに徳川家康の直臣の旗本として大坂の陣では槍奉行として従軍、三代将軍家光の時には2000石の旗本として旗奉行を務めたた人です。
「天下のご意見番」として知られる彦左衛門ですが、講談で登場する「大盥」乗って登場する話や将軍に対して諫言するという部分はあくまで創作とのことであったようです。
しかしながら、自らの出世を顧みず多くの浪人に対して手を差し伸べる義侠の人であったことは事実のようで、寛永16(1639)年に80歳で死ぬ間際に5000石の加増を家光より打診された際には、「余命いくばくもない」として固く固辞したと伝えられています。
 
     


大石良雄他十六人忠烈の跡

泉岳寺の裏手にあるこの碑は、かつて肥後熊本藩細川家の下屋敷があったところに設けられており、本所松坂町の吉良邸に討ち入った赤穂浪士のうち、大石内蔵助良雄他16名が預けられたところで、元禄16年2月4日(1703年3月20日)に切腹した場所です。

(所在地:港区高輪1-4他)
   
 
    
 
 この地で自刃した義士たちは以下の17名です。   
大石内蔵助良雄 (筆頭家老 45歳)   吉田忠左衛門兼亮 (加東郡郡代 63歳)
原惣右衛門元辰 (足軽頭 56歳)    片岡源五右衛門高房 (側用人 37歳)
間瀬久太夫正明 (大目付 63歳)   小野寺十内秀和 (京都留守居役 61歳)
間喜兵衛光延 (勝手方吟味役 69歳)   磯貝十郎右左衛門正久 (物頭側用人 25歳)
堀部彌兵衛金丸 (江戸留守居役 77歳)   近松勘六行重 (馬廻役 34歳)
富森助右衛門正因 (江戸馬廻兼使番 34歳)   潮田又之丞高教 (郡奉行兼絵図奉行 35歳)
早水藤左衛門満尭 (馬廻役 40歳)   赤埴源蔵重賢 (馬廻役 35歳) ※ 赤垣源蔵
奥田孫太夫重盛 (武具奉行 57歳)   矢田五郎右衛門助武 (馬廻役 25歳)
大石瀬左右衛門信清 (馬廻役 27歳)    
 
        
 


旧細川邸のシイの木

高輪区民センターの裏手の高台にあるこのシイの木は、かつて肥後熊本藩細川家の下屋敷があったところにある単木で、木の横にある説明板では、樹高10.8m、幹周り8.13m、枝張りは東に6.7m、西に2.7m、南に5.56m、北に5.8mある巨木で、推定樹齢は300年以上とされ、都の天然記念物に指定されています。

(所在地:港区高輪1-16-25)
 
     
 


日吉坂
 
白金2丁目と白金台1丁目の境界にある坂で、桜田通と目黒通りが合流する100mほど手前にあります。
坂はひよせ、 ひとみ、ひとせなどと角説もあるようで、名前の由来は、この近辺に能役者の日吉喜兵衛が住んでいたことからと伝えられています。
   


魚籃坂
 
三田4丁目と高輪1丁目の境にあり、桜田通りの交差点から伊皿子坂に至る坂道で、坂の途中に魚籃寺があることからこの名がついています。
 
        



荻生徂徠の墓

魚籃坂下の交差点から桜田通りを三田の方向に歩いてすぐのところにある長松寺境内に、国史跡に指定されている荻生徂徠の墓があります。
荻生徂徠は、江戸時代中期の儒学者で、5代将軍徳川綱吉の侍医であった荻生景明の次男として寛文6(1666)年に江戸で生まれ、林春斎や林鳳岡に儒学を学んでいたが、父が綱吉の怒りに触れて江戸より放逐・蟄居となったのに伴い上総国長柄郡本納村(現在の茂原市)に移り、ここで独学で学問の基礎をつくったとされています。
その後父の赦免により江戸に戻り、元禄9(1696)年には柳沢吉保に抜擢されて仕えましたが、綱吉の死後には吉保も失脚したため自分で私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いて、後に「徂徠派」という学派を形成し多くの弟子たちを育てました。
元禄15(1702)年に起きた赤穂浪士の吉良邸討入りに関しては、時の老中達が討入りは「夜盗の輩」と同様として「打ち首」にすべしと決定されていたが、柳沢吉保より相談を受けた荻生徂徠は「その行為は忠孝の道にかなうもので打ち首にすべきではない」と上申したことが、最終的に「切腹」の結論となったとのことです。
【享保13(1728)年63歳で死去】


(所在地:港区白金台3-21-19)
   
 
        
幽霊坂
 

「三田の幽霊坂」とも呼ばれるこの坂道は、長松寺の北側から亀塚公園のある聖坂まで続く250mほどの坂道で、「有礼坂」とも記されることもありますが、その名がついた由来は不明のようで、長さ250mほどの坂道の両側にいくつもお寺が建ち並んでいて昼間でも薄暗く幽霊が出そうであったからとか、明治時代の政治家森有礼の屋敷があったからといわれているようです。

因みに都内には、江戸時代に幽霊坂と呼ばれたところが14か所もあったようで、現在でもこの名が残っているのは、ここ三田の幽霊坂以外に、千代田区神田淡路町、千代田区神田駿河台、千代田区富士見1丁目、文京区目白台1丁目と2丁目、北区田端1丁目、新宿区牛込、品川区南品川にもあり、赤坂8丁目にある乃木坂も江戸時代には幽霊坂と呼ばれていました。
     
 
        


福島正則の墓
 
幽霊坂を登りきる少し手前に右に曲がる道があります。道のたもとには「正覚院」と刻まれた石柱があります。この道を入ってすぐにまた右に曲がって突き当りにあるのが正覚院です。
ここには戦国時代に賤ヶ岳の七本槍で名を馳せた福島正則の墓(供養塔)があります。
福島正則は幼少期より豊臣秀吉に仕えた人ですが、秀吉の死後は加藤清正とともに徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家を撃破し、安芸広島藩49万石の大名となりました。
大阪の陣後に城の改修を行った正則は、届け出を行ったにもかかわらず、無届での改修と判断されて改易となり、その後隠居して出家、63歳で亡くなりました。

(所在地:港区三田4-11-26)
   

歯科医学教育発祥の地碑
 
備後岡山藩出身の高山紀斎は、明治維新後に慶応大学にて英学を修めてアメリカに渡って歯科医学を学ぶ。明治11(1878)年に帰国して銀座にて高山歯科診療所を開業し、2年後にはここ伊皿子坂上にわが国で最初の高山歯科医学院を設立。当時黎明期にあった日本の歯科医学教育の体制作りに尽力した人です。同学院はその後東京歯科大学として現在に至っています。

(所在地:港区三田4-18-20)
 
 
       


亀塚

幽霊坂を登りきったところにある亀塚公園内にある史跡で、公園の一角が小高い丘となっていて、古くから古墳があったのではといわれていますが、自然のものではなく古墳時代に造成されたものと判明しいるものの埋葬品などは発見されていないため古墳とまで判断がなされていません。
この地は、平安時代に書かれた「更級日記」に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である 竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地であり、室町時代の文明年間には、太田道灌が物見台をおいたとも伝えられています。
また、江戸時代には上野沼田藩土岐伊勢守の下屋敷に、明治時代には華頂宮邸となったところでもあります。

 
(所在地:港区三田4-16-20)
   
 
        


最初のフランス公使宿館跡
 
亀塚公園の北側にある済海寺境内に安政5(1858)年に、幕府と第二帝政フランスとの間で結ばれた、日仏修好通商条約に基づいて安政6(1859)年にフランス総領事館がおかれ、2年後には公使館となって明治7年までつづきました。
因みにこの地は江戸時代には「月の岬(月の見崎)」とも呼ばれていたところで、その名前はこの地からの月の眺めを称賛して名付けたといわれていますが、慶長年間に徳川家康がここで月を眺めて名付けたからとか、三田台町一丁目の高札場付近に名付けたとか諸説あるようです。

(所在地:港区三田4-16-23)
   

元和キリシタン遺跡
 
旧東海道札の辻に近い高台で、キリスト教を禁じた徳川幕府時代の元和9(1623)年に、三代将軍徳川家光がエロニモ・デ・アンゼルス神父ら50名を処刑したところです。
写真には写っていませんが石碑の左側には高輪大木戸にあった石垣の大きな石がおかれています。

(所在地:港区三田4-16-23)
 
 
        
慶応義塾大学 三田キャンパス

福沢諭吉が、中津藩の命を受けて築地鉄砲洲にある中屋敷内に安政5(1858)年に開校した蘭学塾が起源となる慶應義塾大学は、慶応4年/ 明治元(1868)年に芝新銭座(現在の浜松町)に移転して「慶應義塾」と名を改めたものです。
明治4(1871)年には現在の地に移転し、明治23(1890)年に大学部を設置し、大正9(1920)年に大学令に基づいて日本最初の私立大学となった歴史ある学校です。

写真はキャンパスの東館で、左の写真は三田通り側から撮影、右の写真はキャンパス内から撮影したものです。
キャンパス内から撮影した写真のアーケードの上には、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語で『HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR』があります。

(所在地:港区三田2-15-45)

   
 
   
  図書館(旧館)
大学創立50周年を記念して大正元(1912)年に赤煉瓦と花崗岩を用いてゴシック様式で建てられた図書館で、関東大震災、東京大空襲の際も被害を受けずに残った建物で、三田キャンパスの象徴的な建造物となっており、国の重要文化財に指定されています。
訪れたときは大規模な改修工事が行われていました。
 
     
  三田演説館と福沢諭吉の胸像
三田演説館は、明治8(1875)年に福沢諭吉自らの資金によって洋風の木造瓦葺きのなまこ壁で建てられたもので、日本で最初の演説会堂として建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。
 
     
  還らざる学友の碑
キャンパス塾監局前の庭園にあるこの石碑は、第二次世界大戦において学徒出陣し、再び学び舎に戻ることのできなかった学友を偲んで平成10(1998)年に設けられたもので、当時の鳥居泰彦塾長揮毫による「還らざる友よ 君の志はわれらが胸に生き 君の足音はわれらが学び舎に響き続けている」の碑文が刻まれています。
碑には塾生及び教職員2226名の名簿が収蔵されています。
    福沢諭吉終焉の地碑
碑がある場所は福沢諭吉が明治34(1901)に亡くなるまで30年間過ごしていた自宅のあったところで、現在は福沢公園となっています。
碑には福沢諭吉の生い立ちを「豊前国中津藩下級士族の子と生まれ…」と刻まれているとのことですが、文字がかすれだして判読することができない状態となっています。
 
   
駐日イタリア大使館

綱坂の中腹右側にあるのが駐日イタリア大使館で、この場所は江戸時時代は伊予松山藩松平家の中屋敷があったところで、赤穂浪士の大石主税良金ほか9名の人が自刃をしたところです。あいにくと大使館の中にあるので写真を撮ることができません。
 
この地で自刃したのは以下の人たちです。
大石主税良金 (大石内蔵助の嫡男 15歳) 
堀部安兵衛武庸 (御使番兼馬廻役 34歳) 
木村岡右衛門貞行 (馬廻役兼絵図奉行職 46歳) 
中村勘助正辰 (祐筆兼馬廻役 45歳)
菅谷半之丞正利 (馬廻役 43歳)
仙波三郎兵衛光忠 (馬廻り役兼宗門改役 51歳)
不破数右衛門正種 (馬廻役兼浜辺奉行 34歳)
大高源吾忠雄 (金奉行・膳番元方・腰物方 32歳)
貝賀弥左衛門友信 (中小姓・蔵奉行 54歳)
岡野金右衛門包秀 (番使 24歳)

(所在地:港区三田2-5-4)
   
   

 

綱坂
 
桜田通りの三田4丁目交差点から慶応大学と慶應義塾中学部の間を北の方向に上る坂道で、三田綱坂或は渡辺綱坂とも呼ばれています。
平安時代の武将であった渡辺綱がこの地付近で生まれたとの言伝えが残る坂ですが、名前の由来には諸説色々あるようです。
 
(所在地:港区三田二丁目)
     
 
綱の手引坂
 
綱坂を上りきるとT字路となります。右に曲がると三田1丁目の交差点に、左に曲がると二の橋の交差点に出ますが、ここにある坂が「綱の手引き坂」です。
言い伝えでは、渡辺綱が幼少期に乳母に手を引かれて坂を上ったことからきているとのこと、別名を「馬場坂」ともいいます。

(所在地:港区三田一丁目と二丁目の境)
 
   
水野監物邸跡

田町駅からすぐのところにある商店街の付近はかつて三河岡崎藩主であった水野監物の中屋敷があった跡で、石燈籠が残るだけとなっていますが、赤穂浪士9名がここにお預けとなり自刃したところです。

ここで自刃した浪士は以下の9人です。
間十郎光興 (勝手方吟味役の間光延の嫡男で討ち入り時は家督前の部屋住み 26歳)
奥田貞右衛門行高 (近松行雄の五男で討ち入り時は部屋住み 26歳)
矢頭右衛門七教兼 (勘定方の矢頭長介の嫡男で父の遺言により参加 17歳)
村松三太夫高直 (扶持奉行の村松秀直の嫡男で家督前の部屋住み 27歳)
間瀬孫九郎正辰 (大目付の間瀬正明の嫡男で家督前の部屋住 23歳)
茅野和助常成 (横目付 37歳)
横川勘平宗利 (徒目付 37歳)
三村次郎左衛門包常 (台所奉行兼酒奉行 37歳)
神崎与五郎則休 (徒目付 38歳)

(所在地:港区芝5-20-20)
   
   
     
     
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