東京歴史さんぽ その17  
  
 
   


有栖川宮記念公園

地下鉄日比谷線の広尾駅から歩いて数分のところにあるこの公園は、江戸時代に盛岡南部藩の下屋敷があった場所で、明治29(1896)年に有栖川宮の御用地と変わっていましたが、有栖川宮が廃絶した後の昭和9(1934)年に高松宮より東京都に贈与されて記念公園となったもので、麻布台地の起伏に富んだ地形を生かした池泉式の日本庭園となっています。都心にある公園で、児童コーナーや広場があり、平日でも親子連れで訪れる人が少なくありません。
右の写真は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の騎馬像
 
(所在地:港区(所在地:港区高輪3-16-16))
   
   
   
   
   
   


南部坂

港区内には「南部坂」の名がついた場所が二ヶ所ありますが、両方とも江戸時代には盛岡南部藩の屋敷があったところにある坂です。
ここ南麻布の南部坂はもとは浅野長直(浅野内匠頭の祖父)の下屋敷があった場所が、南部藩の中屋敷と入れ替えになったところです。
現在は北側が有栖川宮記念公園、南側がドイツ大使館となっています。
ドイツ大使館の壁には同大使館が2007年から行っている「わたしのドイツ」という絵画コンテストで入賞した絵のレプリカがあります。

(所在地:港区南麻布4丁目と5丁目の境)
   
 
   

光林寺
 
正式なお寺の名前は慈眼山光林寺という臨済宗の寺院で、延宝6(1678)年に丸亀藩主京極備中守高豊の開基によって麻布谷町(現在の首都高速谷町ジャンクション近辺と推測されます。)に創建され、元禄7(1694)年に現在の地に移転したものです。
寺の山門と本堂は江戸時代に建てられたもので、境内の墓地には万延元(1860)年に中之橋で攘夷派の浪士に襲われ亡くなった、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンのお墓があります。
ヒュースケンはカトリック教徒であったため土葬しなければなりませんでしたが、当時のエドフ内では土葬が禁じられていたため、江戸府外であったここ光林寺に葬られたものです。

(所在地:港区南麻布4-11-25)
 
山門
 
ヒュースケンの墓
 
     


仙台坂

仙台坂も都内に二ヶ所あり、品川区南品川と、ここ南麻布にあります。
坂は南麻布一丁目と元麻布一丁目の境にあり、坂の名はかつてこの坂の南側に松平陸奥守(仙台藩伊達家)の下屋敷があったことに因んでいます。写真は坂の下側から撮っており、奥が仙台坂上の交差点となります。

(所在地:港区南麻布1丁目と元麻布1丁目の境)
   
   


善福寺

天長元(824)年に空海(弘法大師)によって開山されたと伝えれる都内でも浅草寺、調布の深大寺に次ぐ古刹で、創建時は真言宗のお寺でしたが、鎌倉時代に越後に配流されていた親鸞が親鸞が訪れたのちに真言宗に改組したとのことです。
正式な寺の名前は「麻布山善福寺」といいますが、単に「麻布山」と呼ばれることも多いようです。
寺の境内には、安政5(1859)年6月に締結された日米修好条約に基づいて最初のアメリカ公使館が設けられ、タウンゼント・ハリスが初代公使として赴任し在留していました。
右の写真は善福寺参道の右側に設けられた石碑で、左側の黒っぽい石碑には「開山弘法大師創立 親鸞聖人御舊蹟地 初代米国公使館跡」と刻まれております。
また、境内にある墓地には慶応大学の創設者である福沢諭吉の墓や歌手の越路吹雪の碑などがありますが撮影禁止となっています。

(所在地:港区元麻布1-6-21号)
   
 
   
  中門
勅使門と命名されている中門は、伝承によると、鎌倉時代中期の文永11(1274)年に発生したモンゴル帝国の日本に対する侵攻(文永の役)で、亀山天皇の勅使寺となった時に命名されたものとのことでです。創建当時の門は、太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月の空襲により焼失し、昭和55(1980)年に再建されたものです。
 
   
     タウンゼント・ハリス顕彰碑
顕彰碑には初代駐日公使タウンゼント・ハリスのレリーフ像と碑文が刻まれていますが、戦災で壊れたのでしょうか、日米修好通商百年を記念して昭和35(1960)年に復元したと下段にあります。
また、碑の裏側には「初代米国公使館址」と刻まれています。
 
   
  本堂
港区の有形文化財に指定されている本堂は、京都東本願寺の八尾別院の本堂として慶長12(1607)年に徳川家康の寄進により建立されたものを、昭和36(1961)年に移築し再建したものてす。
 
   
  逆さいちょう
貞永元(1232)年に寺を訪れた親鸞聖人が、訪れた記念にと持っていた杖をさしたところ、枝葉が繁茂したと伝えられ推定樹齢750年といわれ、国の天然記念物に指定されています。
 
   
    柳の井戸
寺の参道にあるこの井戸は、空海(弘法大師)が柳の木の下で錫杖を立てたところ、湧き出してきたと伝えられており、現在でもわずかながら水が湧き出しています。
 
   


きみちゃんの像

幼いころ私も歌った記憶がありますが、「赤い靴はいてた女の子・・・」で始まる童謡『赤い靴』の歌詞は、実在の少女をモデルにして書かれたといわれています。
モデルになった岩崎きみちゃんは3歳でアメリカ人宣教師の養女となりましたが、結核に侵され義父の宣教師とともにアメリカに行くことができずに、麻布にあった孤児院に預けられ、9歳という短い生涯を閉じました。
この像は麻布十番パティオという小さな広場に建てられているものですが、きみちゃんの像は横浜の山下公園ほか北海道、青森、静岡など7か所にあります。

(所在地:港区麻布十番2-3-7)
   

中之橋の親柱
 
中之橋は古河に架かる橋で、一之橋と赤羽橋との間に架けられたことからこの名がついたといわれています。
この橋の北側のたもとでは、日米修好通商条約締結後に、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンが、万延元(1861)年にプロイセン王国の使節宿舎であった赤羽接遇所からアメリカ公使館のある善福寺に戻る途中に攘夷派の浪士によって暗殺されたところです。


赤羽接遇所は、中之橋から歩いて3分ほどの所にある飯倉公園があるところに置かれていましたが、現在はその面影も残っていません。

(所在地:港区東麻布1-31)
 
 
     
日本経緯度原点
 
日本国内の測量の基準となるところで、駐日アフガニスタン大使館脇にある国土地理院関東地方測量部構内にあります。
この地は、明治7(1874)年に旧日本海軍の水路部が観象台を設置したところで、その後帝国大学付属東京天文台(現・国立天文台)に移管され、明治25(1892)年に日本経緯度原点と定められたものです。
原点は、平成23(2011)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により地殻変動が生じたため位置が少しずれ修正が行われました。

現在の経緯度の基準数値は下の通りです。
経度:東経139度44分28秒8869
緯度:北緯35度39分29秒1572
原点方位角:32度20分46秒209
 
尚、高度の基準は国会議事堂の前にある国会前庭洋式庭園にある
水準原点標庫にあります。
(所在地:港区麻布大2-18-1)
   
 
     


狸穴坂
 
外苑東通りに面した駐日ロシア大使館の西側を南に下る坂道で、長さは約250m、高低差19mの坂道です。
江戸時代中期に出版された『江戸砂子』という地誌による、、「むかし此坂に雌狸(まみ)の住ける大なる穴ありとぞ」と記載されていて、ここから坂の名がついたといわれており、その穴が採鉱跡の穴であったという説もあるようです。

(所在地:港区麻布台2丁目と麻布狸穴町との境)
     
 
     
日本国憲法草案審議の地

アーク八木ヒルズというビルの敷地内の西側の塀際にあるこの記念碑は、ポツダム宣言受諾後の現行憲法(「昭和憲法」とも呼ばれています。)の草案を、昭和21(1946)年2月に連合国軍総司令部と日本国政府の間で審議を行った場所であり、終戦後外務大臣官邸があったところです。
審議は、連合国軍側はホイットニー准将とケーティス大佐、日本政府側は外務大臣吉田茂と法務大臣松本蒸治が行っていました。

(所在地:港区六本木1-8-4)
   
 
     
南部坂

赤坂2丁目と六本木2丁目の境界にある長さ150mほどの急坂で、別名「難歩坂」とも呼ばれており、名前が付けられた当時は赤坂福吉町と麻布今井町との境となっていました。
名前の由来は麻布の南部坂と同じく南部藩の中屋敷があったことからで、アメリカ大使館宿舎があるところになります。
この坂は「忠臣蔵」の「南部坂雪の別れ」では大石内蔵助が三次藩下屋敷に預けられていた浅野内匠頭の正室であった瑶泉院に暇乞いに訪れた際通った坂となっていますが、あくまで創作であったようです。
   
 
     
勝海舟終焉の地碑と勝海舟・坂本龍馬の師弟像
 
赤坂の南部坂からすぐのところに幕末から明治にかけて活躍し、幕末の三舟とも呼ばれ、明治32(1899)年にこの地で生涯を終えた勝海舟(勝安房)の屋敷があったところです。
碑の前には平成28(2016)年に、坂本龍馬没後150年を記念して設けられた勝海舟・坂本龍馬の師弟像が置かれています。
勝海舟と坂本龍馬は、文久2(1862)年に土佐藩を脱藩して江戸に到着した坂本龍馬が、松平春嶽(第16代越前福井藩藩主で当時は幕府の政事総裁職)に拝謁して、軍艦奉行であった勝海舟への紹介状を受けて屋敷を訪問し、その門人となったとされています。

(所在地:港区赤坂6-2)
   
 
     


赤坂氷川神社

港区内には白金、元麻布にも氷川神社があるため、ここ赤坂にある氷川神社は「赤坂氷川神社」と呼ばれています。この神社は天暦5(951)年に、現在の赤坂四丁目付近に、霊夢を見た蓮林僧正により奉斎したと伝えられていますが、享保15(1730)年に八代将軍徳川吉宗の命により、浅野内匠頭の正室であった瑶泉院の実家であった浅野土佐守邸跡に移されたものです。
神社は東京十社のひとつであり、麻布氷川神社、渋谷氷川神社、簸川神社などとともに江戸七氷川に数えられ、その筆頭となっています。

(所在地:港区赤坂6-10-12)
   
     

東側(氷川坂側)の参道
 
楼門
 
     
  社殿
享保15(1730)年建てられた社殿は、本殿、幣殿、拝殿が一体となった権現造りの形式で、東京都の有形文化財に指定されています。
 
        

  浅野土佐守邸跡
元禄時代には備後国三次藩の下屋敷でした。三次藩は、浅野因幡守長治が初代藩主となって、安芸国広島藩から5万石を分知された支藩で、その娘が赤穂藩三代藩主浅野内匠頭長矩の正室となった亜久里です。
元禄14年3月14日に、江戸城松の廊下にて内匠頭は吉良上野介に刃傷に及んで、即日切腹隣赤穂藩はお家断絶となりました。
正室であった亜久里は、当時三代藩主であった浅野土佐守長澄に引き取られて出家し、瑶泉院と称して幽居し、正徳4(1714)年に亡くなっています。
 
        
        
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