東京歴史さんぽ その18 |
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観明寺(かんみょうじ) 室町時代の暦王元(1338)年の創建と伝えられる真言宗の寺院である如意山観明寺、明治6(1873)年に当寺の住職がさびれ行く板橋宿に活気を取り戻そうと、成田山新勝寺より不動尊の分身を勧請して縁日を開いたことから、門前の通りを「不動通り」と呼ぶようになったといわれており、寺は出世不動として親しまれています。 (所在地:板橋区板橋 3-25) |
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平尾宿脇本陣跡 江戸時代に参勤交代で江戸に来る大名によっては随行する藩士の数も多くなり、宿場の本陣だけでは泊まりきれないことも生じ、また、藩同士が宿場で鉢合わせすることも生じました。このような場合に利用されたのが「脇本陣」です。脇本陣の規模は本陣よりも小さめであったといいますが、諸式は本陣同様となっていて、宿場の有力者が代々務めていました。 ここ平尾宿では、徳川家康が江戸に来た際に三河より移住してきたと伝えられる豊田家が代々名主を務めていたとのことで、文政4(18211)年に江戸での興業のため中山道を通ってきたペルシャ産の駱駝が豊田家の中庭に引き入れられたとの記録もあるとのことです。 また、新選組の近藤勇は、新政府軍に下総流山で捕縛された後に、処刑されるまでこの屋敷に幽閉されていました。 (所在地:板橋区板橋 3-15) |
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遍照寺 遍照寺は江戸時代前に創建されたとされていますが、詳しい創建の時期は不明のようで、明治4(1871)年には廃仏毀釈令により廃寺となり、明治14(1881)年に旭不動冥途と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22(1947)年に成田山新勝寺の末寺となって復活しました。 江戸時代において寺の境内は、宿場の馬繋ぎ場となっていて、幕府公用の伝馬に用いられる囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などが数十頭繋がれていたとのことで、明治の終わりごろまで馬市も開催されていました。 現在寺は新しい本堂を建立する準備のため建物は一切なくっており、参道に石仏が残されてるだけとなっています。 (所在地:板橋区仲宿40-70) |
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文殊院 江戸時代初期に、板橋宿本陣の飯田家の菩提寺として、古くからり土地の人の信仰が深かった延命地蔵尊の境内を広げて創建されたという文殊院、正式には幡場山大聖寺文殊院といい、寛永2(1625)年に入寂した権大僧都慶恵の開山と伝えられています。 寺は正式な住職をおかずに、赴任してくる仮住職も短期間で他の大寺に転住することから「出世寺」とも呼ばれていました。 寺は板橋七福神毘沙門天となっているほかに、豊島八十八ヶ所霊場18番札所、北豊島三十三ヶ所霊場18番札所となっています。 (所在地:板橋区仲宿28-5) |
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寺の本堂(上左)には扁額ではなく獅子の彫り物(上右)が掲げられています。 | |||||||||||||||||
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板橋 板橋は板橋宿の中宿と上宿の間を流れる石神井川に架かる橋で、平安時代にすでに板の橋が架けられていたと伝わっており、当時としては珍しいことであったことからそのまま地名として用いられるようになったという説が有力とのことです。江戸時代の橋は、長さ約9間(約16.4m)、幅奥3.5間(約5.5m)の緩やかな太鼓橋で、当時の情景は歌川広重の浮世絵や長谷川雪旦の『江戸名所図会』に描かれていました。 現在の橋は、一見木製の橋のように見えますが、コンクリート製の橋桁に色が塗られています。橋のたもとにある距離標柱では、「日本橋より二里二十五町二十三間」と書かれてあり、左側には「日本橋から十粁六百四十二米」とあります。 川の両岸には桜並木が続き、板橋区が選定した「板橋十景」に選ばれています。写真を撮っているときに行きあったご婦人に「春はお花見にいいですね」と話しかけたら、「土日は人が多いけど平日に来ればそんなにひとも多くないからぜひどうぞ」とのことでした。 (所在地:板橋区本町28-29) |
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本町にぎわい広場にある『江戸名所図会』のエッチング画 広場にある火の見櫓風の建物の壁にあるこのエッチング画は、江戸時代後期の絵師、長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会』の中にある「板橋驛」と「乗蓮寺」の絵を銅板エッチングしたもので、左の「板橋驛」の絵は石神井川に架かる太鼓橋の板橋の様子が、右には「乗蓮寺」と「板橋驛」の様子が描かれています。 乗蓮寺は描かれた当時中宿にあ描かれている相生杉と夫婦松があることから縁結びの寺として知られていましたが、現在は赤塚に移転しています。 (所在地:板橋区本町25-10) |
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智清寺 室町時代の初期応永年間に、見誉上人智清による創建と伝えられるお寺で、正式には龍光山恵照院智清寺といい、江戸時代には徳川家康より寺領五石を与えられた御朱印寺でした。 左下の写真の山門を抜けたところにある石橋は、正徳4(1714)年に農業用水として石神井川の水を分水して設けた用水に架けられたもので、その水の配分を巡って明治5(1872)年に起きた水騒動では、多くの農民が寺に立てこもったとのことです。 (所在地:板橋区大和町37-1) |
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山門 |
本堂 |
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日曜寺(にちようでら) 正徳年間(1711-1716) )に宥慶比丘がお堂を営んだのが始まりとされる光明山愛染院日曜寺、八代将軍徳川吉宗の第二子である田安宗武の帰依をえて伽藍を造営。宗武は藍染明王像をはじめ仏像、仏画、曼荼羅、什器等を奉納して同寺を尊信していたと伝えられています。また、宗武の第三子である松平定信(白河楽翁)も父同様に篤信して山門に掲げる扁額に揮毫しています。寺の本堂などは太平洋戦争末期の空襲で、山門を残してほとんど焼失し、現在の本堂は昭和45(1970)年に再建されたものです。 寺は、本尊の藍染明王の「愛染」の語句から縁結びの仏として、また、「藍染」に通じることから染色業者が守り本尊として崇め多くの人たちから信仰されています。 写真手前の石橋は、石神井川の分水として徳川家綱の時代に設けられたといわれる稲付川(稲付用水、根付用水とも呼ばれていました。)が流れていたところで、現在は全て暗渠となっています。 (所在地:板橋区大和町42-1) |
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山門に掲げられた松平定信揮毫による扁額 |
本堂 |
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氷川つり堀公園 石神井川のの旧河道を利用してつくられたつり堀公園で、板橋区の管理のもと無料で利用でき、金魚、タナゴ、クチボソなどを釣っては、キャッチ&リリースを行っており、子供から女性そして老人と多くの人が訪れています。 (所在地:板橋区氷川町21-15) |
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圧磨機圧輪記念碑 「圧磨機圧輪」とは火薬製造に用いる機械のことで、それまで手工業的な生産が行われていた火薬の製造を近代化するため、慶応元(1865)年に、幕臣で築地軍艦操練所教授方手伝出役であり海軍砲術を教授していた澤太郎左衛門が幕命でオランダに渡り火薬製造技術を学ぶ予定でしたが、最高軍事機密であることを理由に断られ、紹介されたベルギーのウェッテレン火薬製造所で製造技術を学び、ここで購入した圧磨機圧輪で火薬製造を行うこととなりました。 圧磨機圧輪を用いて火薬を製造するためには水を注ぎながら圧磨機圧輪を回転させ、硫黄、硝石、木炭等を粉砕して篩にかけて粒子をそろえる必要があることから、明治政府は当時石神井川岸近くにあった金沢県邸(旧加賀藩下屋敷平尾邸)の土地の一部を引き渡しを受けて、製造を行うこととし、火薬製造所の建設を開始、明治9(1876)年に完成した陸軍の砲兵本敞板橋属敞で操業を開始しました。 圧磨機圧輪を回転させるための動力は、石神井川から水を導水し、縦軸水車(簡易フランシス水車)で行われていました。 しかしながら黒色火薬の製造は取扱が難しく爆発事故が発生していたこともあり、製造が減少して明治39(1906)年に操業が停止されるに至りました。 この圧磨機圧輪機、一見するとコンクリート製のように見えますが、大理石で造られています。 (所在地:板橋区加賀1-10 加賀西公園内) |
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