東京歴史さんぽ その19  
  
 
   

駒込土物店跡
 
東京メトロ南北線本駒込駅から徒歩2分位のところにある浄土宗の地久山仙壽院天栄寺があるあたりは、江戸時代の元和年間(1615~1624)頃から「駒込辻のやっちゃ場」或は「駒込の土物店」と呼ばれて神田、千住とともに江戸の三大青物市場があったところです。
市場の起こりは、寺の境内にサイカチ(マメ科の落葉高木、漢字では「皁莢」)の巨木があって、近隣の農民たちが野菜を売りに行く途中この木の下で休むことが多く、近隣の住民たちが新鮮な野菜を買い求めだしたのが市場になったとのことであり、昭和12(1937)年に市場が豊島区に移転するまで続けられていました。



(所在地:文京区本駒込1-6-16)
   
 
      

緒方洪庵の墓

文京区向丘にある高林寺の境内にあるお墓で、緒方洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医者、教育者でした。
洪庵自身が病弱で8歳の時に天然痘に罹ったこともあり武士の子供であるにもかかわらず医師を目指し、中天游の私塾「思々斎塾」に入門して蘭学、特に医学を学び、その後長崎に出て更に研鑽しました。
天保9(1838)年には大坂に帰り、医業を開業するとともに適々斎塾(「適塾」)を開いて多くの人を育てた人で、天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれています。

(所在地:文京区向丘2-37-5)
      
おその地蔵

本駒込にある善龍山清源院常徳寺の境内にあるお地蔵さんで、正式には「十万人親縁記念供養塔」といい、大正11(1922)年に亡くなった三田その子の供養のために建立されたものです。
三田その子は、嫁ぎ先で結核に罹り、離縁されるとともに幼子とも別れて療養生活を送った後に亡くなった人で、「もし生まれ変わったらお地蔵さまになって自分と同じ苦しみを持つ人々を救ってあげたい」という思いを残してこの世を去ったことから、当時の住職が血縁者を募って建立されたものです。

(所在地:文京区駒込3-7-16)
  
 
     

高村光雲・豊親の遺宅と高村光太郎の旧居跡

高村光雲は旧姓を中島といい、仏師高村島雲の弟子となり、その腕を師に認められてその名を継いだ人で、東京芸術学校(現 東京芸術大学)創設とともに教授となって多くの後進を指導しました。代表作には上野公園にある西郷隆盛像、皇居外苑にある楠木正成像があります。
高村豊親は光雲の三男で、鋳金家として人間国宝に推された人で、光雲の家督を継いでこの家で光雲と同居していました。
詩人、歌人、そして日本を代表する彫刻家として知られる高村光太郎は、光雲の長男として生まれ、長沼智恵子と結婚した際に、この家からほど近い所に、自ら設計した家に転居して妻智恵子と暮らしていましたが、智恵子が亡くなった後は一人で暮らしていました。家は昭和20年の空襲で焼失しています。
(高村光雲・豊親の遺宅の所在地:文京区千駄木5-20-6)
(高村光太郎旧居跡の所在地:文京区千駄木5-22-8)
 
 
     

宮本百合子ゆかりの地

この場所は、プロレタリア作家として知られる宮本百合子の実家である中条家があったところで、あずき色の門柱がその名残となっています。
宮本百合子は、旧姓中条ユリといい、日本女子大学予科に入学後の17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場して天才少女として注目を浴び、その後は離婚後の破たんした生活まとめ代表作となった『伸子』を発表。
ソ連(現 ロシア連邦)を旅した後にプロレタリア文学運動に参加、共産党員となり同委員あった宮本顕治と再婚、度々投獄されるも執筆活動を続け、『風知草』、『播州平野』、『道標』などを発表し、昭和26(1951)年に51歳で急死するまでこの地で暮らしていました。

(所在地:文京区千駄木5-20)
   
 
     

須藤公園

須藤公園は江戸時代に加賀藩の支藩であった大聖寺藩の松平備後守の屋敷であったところで、明治時代には長州藩出身の政治家であった品川弥二郎の邸宅となり、明治22(1889)年には実業家須藤吉左衛門の屋敷となりました。昭和8(1933)年には須藤家より当時の東京市に寄付され、その後文京区に管理が委託された公園で、高低差のある池泉式回遊式庭園を公園にしており、深山幽谷の趣きのある公園となっています。


池には『かっぱに注意』の看板がぶら下っています。この池に河童が住んでいるのでしょうか。

(所在地:文京区千駄木3-4)
   
     
   
     
 
団子坂
 
文京区千駄木の1、2丁目と3、5丁目の間にある坂で、東に行くと谷中へ、西に向かうと本駒込となります。
坂の名前の由来は、昔団子を売る店があったとか、団子のような石の多い坂だった、急な坂なので雨降りの日に転ぶと泥まみれの団子のようになるからなど諸説あるようです。
   
専念寺の六地蔵

専念寺は一心山正定院といい、専念精舎とも呼ばれるお寺で、創建年代は不明ですが、この地には天和年間(1681~1683)に移ったとされています。
この地蔵尊は、江戸時代に東都六地蔵の第二番の宝珠地蔵として有名であった地蔵尊で、「初めの六地蔵」といわれるものです。
地蔵尊は高さが233cmmあり、造立願文や寄進者と思われる人の名が彫られている珍しい地蔵尊です。


(所在地:文京区千駄木1-22-24)
 
 
     
 
光源寺
 
天正17(1589)年に神田四軒町(現在の小川1丁目付近)で創建された浄土宗のお寺で、正式には天昌山松翁院光源寺といい、慶安元(1648)年に現在の地に移転。駒込大観音光源寺とも呼ばれています。
境内には、江戸の鰹節問屋の主であった丸屋吉兵衛の寄進による観音堂があって、大和国長谷寺の観音の写しといわれた1丈6尺(約4.85m)の十一面観音像が安置されていて、『江戸名所図会』で紹介されるほど著名な観音像でしたが、太平洋戦争により観音堂とともに焼失しています。
現在は、平成5(1993)年に再建された一見教会ではと思えるような形の新しい観音堂(右の写真)の中に、高さ約6mの観音像が安置されています。。
寺では毎年7月9日と10日には「四万六千日(しまんろくせんにち)」の縁日が開かれています。
 
(所在地:文京区向丘2-38-22)
   
     
 
庚申待百万遍講中庚申塔

観音堂の右隣にある笠付角柱型の庚申塔で、記年銘から江戸時代中期の明和9(1772)年に造立したとされており、塔の高さは台座を含めて約2.5mある大型の庚申塔となっています。
正面にはショケラ(人間)を持つ一面六臂の青面金剛立像があり、右足で踏みつけられた邪気と、その下の台座には三猿が彫られています。
塔の左側面には「武運長久息災延命 明和九壬辰歳」、「庚申待百万遍講中」、「七難即滅七福即生 四月吉祥日」と刻まれており、右側面には
「天長地久御圓満」と「一天四海天下泰平」と刻まれています。
   
 
     
  丸屋吉兵衛の寄進による阿弥陀如来石像(右側)と千手観音石像(左側)  
     
 
大円寺
 
正式には金龍山大円寺といい、慶長2(1597)年に、石河勝政の開基、群馬県館林の茂林寺十二世久山正雄の開山によって神田柳原に開山されましたが、慶安2(1649)年にこの地に移っており、「駒込の大円寺」と呼ばれています。
天和2(1683)年12月に発生し、「天和の大火」と呼ばれ江戸の大火のひとつとなった火事の火元となったのがこの寺とのことです。
八百屋お七の家はこの火事で被災者となっており、避難先の寺小姓と恋仲になり、家が再建されて実家に戻るも小姓のことが忘れられず、火事になればまた小姓に会えると自宅に放火したことから、「天和の火事」よりも「お七火事」と呼ばれるようになっています。
山門(右の写真)の正面奥に見えるの「焙烙(ほうろく)地蔵尊」は、享保4(1719)年に渡辺九兵衛がお七の供養にと寄進して造立されたもので、お七の大罪を救うため、熟せられた焙烙(素焼きの土鍋の一種で、形は平べったい)を頭に乗せ、お七の身代わりとして、焼かれる苦しみに耐える地蔵として安置されたものです。
焙烙地蔵は、頭痛や悩み事があるとき、炮烙を供え祈願すると、願いごとがかなうといわれており、「炮烙」は「俸祿」にも通じることから、最近は願い事で訪れるサラリーマンの姿も見受けられるようです。
※ 「天和の大火」は、天和2年12月28日(1683年1月25日)に発生し、焼失した武家屋敷241、寺社95、焼死者は830人から3500人と推定されています。
 
(所在地:文京区向丘1-11-3)
   
     

本堂
 
焙烙地蔵尊
 

   
 
高島秋帆の墓
 
高島秋帆は、寛政10(1798)年長崎に生まれ出島のオランダ人よりオランダ語と西洋砲術を学び、私費で銃器等をそろえて「高島流砲術」を完成させる。
天保12(1841)年には武蔵野国徳丸ヶ原(現在の豊島区高島平)において日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なっい、幕府からは砲術の専門家として重用されましたが、翌年には鳥居庸蔵の、長年の長崎会所での運営による資金への妬みを受け(老中水野忠邦によるとするせつもあり)て投獄され、ペリー来航後の嘉永6(1853)年に赦免されて出獄するまで約10年間獄中の人となっていました。
その後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力し、慶応2(1866)年に69歳で亡くなりました。
   
斎藤緑雨の墓

明治時代の小説家である斎藤緑雨(本名 斎藤勝)は、慶応3年12月(1868年1月)に伊勢国津藩の医師の子として生まれ、東京府中学(現在の都立日比谷高校)を経て明治法律学校(現在の明治大学)に進学しますが、弟たちのために中途で勉学をあきらめ、文筆で立つことを決意しました。
その後、明治22(1889)年から『小説八宗』、『初学小説心得』、『小説評注問答』などのパロディ精神にあふれた評論を書き、辛辣辛口の批評家として踏み出し、代表作である『油地獄』、『かくれんぼ』などの小説を出しました。
明治33(1900)年には肺結核に罹患し、小田原で転地療養するも病状は改善せず、明治37(1904)年4月13日に友人である馬場胡蝶に口述筆記させた、「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」という死亡広告を残して、翌日36歳で亡くなりました。
 
      

夏目漱石旧居跡
塀の上に猫のモニュメントがあり「猫の家」とも呼ばれるこの旧居跡は、明治時代の文豪夏目漱石が、約2年間のイギリス留学から帰国後の明治36(1903)年から3年間住んでいたところで、第一高等学校(現在の東京大学教養学部で、「旧制一高」とも呼ばれています。)と東京帝国大学(現在の東京大学)の講師を務める傍ら、この住まいを舞台にして処女作となる『吾輩は猫である』を執筆、その後、『倫敦塔』、『坊つちゃん』、『草枕』等を次々に発表した所でもあります。
漱石はその後西片町に移っていますが、当時の家は犬山市にある明治村に移築、保存されています。


(所在地:文京区向丘2-20-7)
   
 
     
     
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