東京歴史さんぽ その3
   
西郷隆盛・勝海舟会見の地
大政奉還後の江戸城明け渡しについて新政府側と徳川家側で意見が食い違い、新政府側が江戸城総攻撃を慶応4年3月15日(1868年4月7日)と決定している中で、田町にある薩摩藩江戸藩邸において大総督府下参謀(新政府の陸軍司令官)・西郷隆盛(南州)、と徳川家側の最高責任者である大久保一翁、陸軍総裁勝海舟らが二度にわたって会見を行い「江戸城無血開城」が決定。五箇条の御誓文が発布されるにいたりました。
(所在:港区芝5-33-1 山手線田町駅より約2分)
   
 
   
高輪大木戸跡
大木戸は江戸時代に江戸府内の出入口として設けられた関所で、人や物品の出入りをチェックしていました。ここ高輪の大木戸は宝永7年(1710年)に設けられたもので東海道への出入口として利用されており、当時ここを出てすぐの宿場が品川宿で、幕末期に「全日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬はここ高輪大木戸を出発点にしたとされています。
所在は国道15号線(第1京浜)の高輪大木戸跡交差点のすぐそばであり、道路を隔てたところには泉岳寺があります。
この高輪大木戸以外にも甲州街道の出入は四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近で新宿御苑の大木戸門はこの大木戸に因むものです。)、そして中仙道の出入りが板橋大木戸(現在の板橋区本町近辺)と設けられていました。
 
        
御穂鹿嶋神社(みほかしまじんじゃ)
もともとは御穂神社(文明11年(1479年)創建)と鹿嶋神社(寛永年間(1624~44)創建)と別の神社でしたが、社殿の老朽化により平成17年(2005年)に合祀されています。
この地は昭和39年ごろまで神社のすぐそばまで漁船が入る入り江となっており、芝浜と呼ばれており人情話で有名な古典落語の「芝浜」の舞台となっているところです。現在は埋め立てが行われ当時の面影は見られません。
(所在:港区芝4-15-1)
 
   
増上寺
徳川家の菩提寺である浄土宗の三縁山増上寺、室町時代の明徳4年(1393年)に創建され、創建当時は現在の千代田区紀尾井町近辺に置かれていたが、徳川家の菩提寺になった慶長3年(1598年)に現在の地に移っています。
徳川家の菩提寺はここ増上寺のほかに上野の寛永寺がありますが、増上寺の徳川家霊廟にはには二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の六人の将軍の墓所があり、悲劇の皇女和宮の墓もあります。
右は「大殿」と呼ばれている本堂です。
    
 

台徳院霊廟惣門

大門

鐘楼堂

西向観音

千体地蔵
 
浅野内匠頭終焉の地碑
播州赤穂藩の藩主であった浅野内匠頭長矩公は、元禄14年3月14日(1701年4月21日)江戸城における勅旨接待役の儀式の直前に高家筆頭吉良上野介に刃傷におよび、江戸城の不浄門とされている平川口門から網駕籠(士分の重罪人の護送用)で、芝愛宕下にある幕府奏者番の奥州一関城主田村右京太夫邸に預けられ、藩邸到着後わずか一刻(約2時間)後という異例の早さ、しかも上級武士ではありえない藩邸の庭での切腹となりました。
(所在:港区新橋4丁目31日比谷通り)
 
       
愛宕神社
23区内では珍しい自然の山としては最高の高さの愛宕山(標高26m)の頂上にある愛宕神社は、慶長8年(1603年)徳川家康の命により創建され、
火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神としており防火・防災にご利益のある神社として知られています。
山の上にある神社なので石段を上らなければなりませんが、正面の石段はとても急で「男坂」と呼ばれており、標高差約20m、傾斜角度は約37度、段数は86段結構きつい階段です。
寛永11年(1634年)三代将軍の徳川家光公が増上寺参詣の帰途ここに立ち寄り、境内に咲いている源平の梅(1本の木に白、赤の花を咲き分けている梅の木をいいます。)を見て、「誰か馬にてあの梅を手折って参れ」と命ぜられ、家臣たちがしり込みする中で見事馬にて上り下りしたのが丸亀藩家臣の曲垣平九郎で、以後その名は全国に鳴り響いたとのことで「出世の石段」とも呼ばれており、講談や浪曲の「寛永の三馬術」で今も語り継がれています。
本当にこの石段を馬で上ったのというくらい急な石段ですが、曲垣平九郎以外にも過去に3例、明治15年(1882年)に元仙台藩の石川清馬、大正14年(1925年)に陸軍参謀本部の岩木利夫、昭和57年(1982年)にスタントマンの渡辺隆馬という人が成功しているとのことです。
「こんな石段とてもじゃないけど上れない!」という方も大丈夫、ちょっと回り道になりますが「女坂」という上りのゆるい石段があります。出世の石段を降りると縁起が悪いという方は女坂を降りてゆきます。(所在:港区愛宕1-5-3)
写真は左から出世の石段(3枚)、社殿入口の丹塗りの門(2枚)そして社殿です。(クリックすると大きな画像が表示されます。)
 
 
 
 
日本水準原点標庫
日本水準原点標庫は日本の水準原点を保護するための建物で、水準原点は正面の菊花紋章をあしらった蓋をはずしたところに入っています。
建物は国会前庭の洋式庭園(憲政記念館構内)にあり、明治24年(1891年)にかつてこの地にあった陸軍参謀本部の陸地測量部(現在の国土地理院の前身)が置かれていたこの地に設置されたもので、明治期の数少ない洋風建築として東京都の有形文化財に指定されています。なお、標庫の上部には「大日本帝国」と刻まれていますが、公的建造物でこの表記があるのは数少ないものだとのことです。
ここに水準原点が設置されたときの標高は24.5000m(東京湾の平均平均海面よりの標高)でしたが、関東大震災、東日本大震災により若干沈下し、現在では24.3900mとなっています。

(所在:千代田区永田町1丁目)
 
三菱一号館
東京丸の内で洋風貸事務所建築として明治25年(1892年)に三菱合資会社によって赤煉瓦造りで建てられたもので、その後同地帯はロンドンのロンバード街に倣った赤煉瓦街が続き「
一丁倫敦(いっちょうろんどん)」とも呼ばれていたようです。
現在の建物は平成21年(2009年)に旧三菱1号館に似せて煉瓦造りの建物で正式名称は「三菱一号館美術館」となっています。
(所在:千代田区丸の内2-6-2)

下の写真4枚は丸の内北口から地下鉄丸の内線の大手町駅に抜ける地下道内に展示されていた一丁倫敦と呼ばれていた当時の丸の内の風景です。(照明がガラスに反射しているのでちょっとみにくいですけど・・・)
(クリックすると大きな画像が表示されます。)
 
 

馬場先門通り

帝国劇場

丸の内ビル(左)と海上ビル(右)

丸の内ビルディング
 
   
電話交換創始の地碑
明治23年(1890年)に、わが国電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、東京、横浜間での交換業務が同年12月から開始されました。
このプレートは三菱UFJ信託銀行の壁面に埋め込まれており、同様のプレートが横浜市中区日本大通にもあります。
    
日本工業倶楽部会館
日本工業倶楽部は、当時の実業家たちが「工業家が力を合わせて、わが国の工業を発展させる」ことを目的として大正6年(1917年)に設立した法人で、経済団体として重要課題に対する調査活動等を行い当時の経済会発展のため機能を果たしてきました。
法人設立後の大正9年(1920年)に徳川幕府の時代に伝奏屋敷(幕府と朝廷の間を取り次ぐ公家の宿所として用いられていました。)が置かれていたところに建てられました。
建物は登録有形文化財として平成11年(1999年)に登録されましたが老朽化のため会館の南側部分を保存・再現したうえで建て替え、三菱信託銀行本店ビルとして平成15年(2003年)に竣工しています。正面屋上には二つの人像が置かれ、戦前の日本経済の中心であった石炭(ハンマーを持つ男性)と紡績(糸巻きを持つ女性)を表現しているとのことです。
(そういえば今から50年以上前ですが、ここで開かれた展示会に説明員としてきたことがありました。)(所在は上右の地図で)
         
 
平将門の首塚
大手町のビルの谷間に鬱蒼とした木が茂っているところが都の旧跡である平将門の首塚です。
天慶3年(940年)京の朝廷に対抗して東国の独立を宣した平将門はわずか2ヶ月で戦いに敗れ討伐され(承平天慶の乱)、その首級は平安京まで送られ東の市(現在の奈良市
杏町(からもも)や西九条町周辺)で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる伝承があり、その地は数ヶ所に上っており中でもここ大手町の首塚が最も著名なところとされています。もともとこの地は盛り土がされていた内部に内部に石室ないし石廓があったことから古墳であったのではと推測されています。
首塚の周りには何体もの蛙の置物がありますが、将門の首が京から飛んで帰ったという伝承から必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、「左遷されても必ず元の会社に帰ってこれるように」、「誘拐された子供が帰ってくるように」と願いをこめて蛙を供えているとのことで、訪れる人も少なくないようです。
なお、この場所は江戸時代の寛文年間に幕府の老中であった酒井雅楽頭忠清の上屋敷の中庭があった場所でもあり、寛文年間に発生した仙台藩のいわゆる伊達騒動ではこの中庭において仙台藩の重職であった原田宗輔(甲斐)が老中の審問を受けているさなかに仙台藩当主である伊達宗重を惨殺し、自らも惨殺された場所でもあります。
(所在:東京都千代田区大手町1―2―1 地下鉄大手町駅C5出口そば)
   
        
   
   

東京駅丸の内口全景(魚眼レンズで撮影)
 
   
北町奉行所跡
東京駅八重洲北口の大丸百貨店からトラストタワーに抜ける通用口みたいなところがありますが、そこの壁に埋め込まれているのが左の記念プレートです。探しにくいところにありますので地図を参照してくださ

右の2枚は丸の内トラストタワーから永代通りに抜ける細い道のところにある碑文と江戸城外濠の石垣です。
(クリックすると大きな画像が表示されます。)
 
 
 
 
        
         
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