東京歴史さんぽ その23
 
 
   
  伊藤左千夫牧舎兼住居跡
総武線の錦糸町駅の南口ロータリーにあるこの碑は、明治時代の小説家であり歌人であった伊藤左千夫(本名 幸次郎)が、26歳の時にこの地に住み、付属している牧舎で牛の乳搾りをしながら創作活動を行っていたところです。
石碑には「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも」と左千夫が詠んだ歌が刻まれています。
(所在地:墨田区江東橋3-13)

 
 
   
 




五柱稲荷神社(上の写真)
五柱稲荷神社は、享保13年(1728年)に上総勝浦藩第二代藩主であった植村土佐守正朝が、京都の伏見稲荷を勧請して奉祀したことで創建されている神社です。
狭い境内の中には「勝海舟揺籃の地」と記した木で造られた碑があります。
この碑は元は両国4-25の付近にあったよあですけど、なぜか移動されているようです。
(所在地:墨田区緑4-11-6)
 
 
     
 
 



勝海舟居住の地
文政6年(1823年)に両国で生まれた勝海舟は、天保2年(1831年)ごろにこのちにあった旗本岡野氏の屋敷に移り住み十代の後半までこの地で過ごしたといわれています。

(所在地:墨田区緑4-35-6)
      
 



山岡鉄舟旧居跡
勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれた幕臣で剣術家で、一刀正傳無刀流(無刀流)の開祖となった山岡鉄舟(鉄太郎)が住んでいたところす。
鉄舟は、幕末の江戸城無血開城のため、駿府にて西郷隆盛と会談し、勝海舟の会場への最終階段にも立ち会っています。
維新後には明治天皇の侍従となっており、子爵に叙されています。

(所在地:墨田区亀沢4-11-15堅川中学校内)
      
 



河竹黙阿弥終焉の地
幕末から明治にかけての狂言作者である河竹黙阿弥は、日本橋の裕福な商店の息子として生まれましたが、読み本や芝居の台本、川柳から狂歌の創作にふけり、まるで落語や小説を地で行くような生活ぶりから親から勘当されるということとなりました。
20代の後半には座付き狂言作者として筆頭の地位となる立作者(たてさくしゃ)となり、『三人吉三廓初買(通称 三人吉三)』、『極付幡随長兵衛』など多くの代表作を書いた人です。
(所在地:墨田区亀沢2-11)
 
     
   
  三遊亭圓朝住居跡
幕末から明治時代にかけて活躍し、三游派のみならず落語会中興の祖として知られる初代三遊亭圓朝(「円朝」とも記されます。)は、26歳で真打となり、人情噺、怪談噺などを得意として江戸落語を集大成しました。代表作には本所に住んでいた薪炭商の塩原太助をモデルとした「塩原太助一代記」、「真景累ケ淵」、「怪談牡丹燈籠」などがあります。
圓朝は、明治9年(1876年)にこの地に移り住み、同28年(1895年)に牛込に移るまで過ごしていました。
(所在地:墨田区亀沢2-13)

 
 
 
 



野見宿禰神社
日本相撲協会が管理している神社で、津軽家の屋敷があったこの地は高砂部屋が置かれていましたが、明治17年(1884年)に、相撲の始祖である野見宿禰を祀るため創建された神社です。
(所在地:墨田区亀沢2-8-10)
 
   
   
  神社は、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、昭和28年(1953年)に再建されています。
 
 
 
 
 
  境内には、初代横綱の明石志賀之助からはじまり、第72代横綱の稀勢の里寛に至るまでの歴代横綱の名前が刻まれた、2枚の石碑が置かれています。
 
 
   
  すみだ北斎美術館
緑町公園内にあるこの美術館は、江戸時代の浮世絵師葛飾北斎が、本所界隈で生まれて生涯を過ごしたゆかりの地であることから、墨田区が平成28年(2016年)に建てた美術館で、北斎の描いた富嶽三十六景のうちの神奈川沖浪裏や、大森貝塚を発見したエドワード・モースのひ孫で、北斎の作品の収集家、研究者として知られ、来日中に急逝したピーター・モースの遺族から譲渡されたコレクションなどが展示されています。
(所在地:墨田区亀沢2-7-2)

 
 
 
 



江川太郎左衛門屋敷跡

伊豆韮山の生まれで、代々韮山代官の家に生まれた江川太郎左衛門英龍は、幕末の政情不安な時代において、西洋文化の取入れに積極的に取り組み、品川台場の建設や、韮山での反射炉の築造をを行った人です。
(所在地:墨田区亀沢1-3)
 
 
     
   
  江戸東京博物館
両国国技館の隣に建てられているこの博物館は、江戸から東京と移り行くなかで、失われつつある歴史と文化を残すために、分館である江戸東京たてもの園と同時に平成5年(1993年)に設けられました。
館内には、江戸時代の絵図や浮世絵、江戸時代の建物の模型、庶民の生活などに関する展示品、明治時代に入ってからの資料など多数が展示されています。
(所在地:墨田区横網1-4-1)
 
     
 
 



徳川家康像
江戸東京博物館の敷地内に建てられているこの徳川家康像は、江戸消防記念会から博物館に平成6年カ(1994年)に寄贈されたもので、なぜか台座には亀の像があります。

 
     
   
  本所御蔵跡
現在両国駅から国技館、そして墨田区立両国中学校がある付近は、江戸時代に本所御蔵と呼ばれてた、旗本や御家人に対して支給する切米や扶持を保管するための幕府の御米蔵があったところです。
享保19年(1734年)にはこの一帯4万4千坪の敷地に88戸前(「とまえ」と読み、土蔵の数を数えるのに用いていた言葉です。)もの倉庫が建てられ、安政の時代には246戸前にも上っていたようです。
隅田川の対岸の蔵前には「浅草御蔵」と呼ばれた御米蔵があり、両方で50万石近い収蔵量があったといわれています。
残念なことにエッチング加工された案内板の文字が薄れて、説明書きが読み取りにくくなっています。
(所在地:墨田区横網1-4)

 
 
 



俵星玄蕃道場跡
講談の忠臣蔵に登場する俵星玄蕃の道場があったとされる場所ですが、実際には架空の人物で、赤穂浪士である杉野十平次が、「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良家の動向を探っていたところに客として訪れ親しくなり、宝蔵院流の槍術の腕前を披露したといい、討ち入りの際には助太刀を申し入れ、これが断られると両国橋の上に槍を持って浪士たちが本懐を遂げるまでまで仁王立ちとなっていたとされています。
(所在地:墨田区横網1)
      
 



斎藤緑雨居住の地
幕末の慶応3年(1868年)に伊勢津藩の医師の子として生まれた斎藤緑雨は、学業途中で生計を助けるため明治法律学校(現 明治大学)を中退し、文筆業の道に入り、パロディ精神に満ちた評論を萬朝報や読売新聞に掲載していました。
代表作には『晴眼白頭』、『油地獄』などがあり、樋口一葉とも親交を深め、一葉が没したのちは「一葉全集」の攻勢を手掛けていましたが、明治37年(1904)4月13日に36歳で亡くなっています。
所在地:墨田区両国2-19)
     
 



芥川龍之介生育の地
明治25年(1892年)に京橋区(現 中央区)入船に牛乳販売を営む新原家に生まれた龍之介は、母の病もあって1歳に満たない時に、母の実家があるこの地にあった芥川家で伯母に養育され、11歳に母が亡くなると芥川家の養子となり、18歳の時に新宿に移り住むまでこの地で過ごしていました。
芥川家は江戸時代の幕臣の家系で教養趣味が深く、龍之介も読書や文字の練習を受けて育ったとのことであり、住いのそばには回向院や龍之介が通った小学校もあり、、この頃のことが「本所両国」、「追憶」などの作品に記されています。
(所在地:墨田区両国2-19)
       
 



本所松坂町跡の碑
両国三丁目の京葉通り(国道14号線)沿いにあるこの古い石碑は、吉良上野介屋敷があった本所松坂町の跡を示すもので、碑には下記の文章が刻まれています。

碑ヲ中心トスル一帶ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ
然ルニ大正大震災後ニ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ
永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之レヲ勒ス

(所在地:墨田区両国2-19)
 
     
   
  芥川龍之介文学碑
両国に住んでいた芥川龍之介が通っていた当時の江東尋常小学校(現 両国小学校)の北西角におかれているこの文学碑は、、芥川龍之介の文才を偲ぶ意味で、同小学校創立150周年を記念して建立されたもので、碑文には龍之介の代表作である「杜子春」の一部が刻まれています
(所在地:墨田区両国4-26-6)
 
 
   
  勝海舟生誕の地碑
前回も訪れたことのある両国公園の一角に勝海舟生誕の地の碑が建てられていますが、3年半前のことなのに少し趣が変わっています。
(所在地:墨田区両国4-25-3)
 
 
 
 



本因坊屋敷跡
囲碁界の名門である本因坊家の屋敷があったところで、元は芝金杉に屋敷がありましたが、幕府に接収され、その代替地として寛文7年(1667年)よりここに居を構えていました。
本因坊家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた一世本因坊算砂(日海)を開祖としており、常に囲碁界の家元の中で筆頭の位置にあり、多くの棋士を生んだ家です。
(所在地:墨田区両国3-5-7)
       
 



鏡師中島伊勢住居跡
この辺りは吉良上野介の屋敷があったところで、浪士討ち入り後に町人達に払いさげられており、鏡師である中島伊勢も住いを構えていました。
「鏡師」とは、鏡を造ったり、磨いたりする人のことで、西洋鏡と違って当時造られていた和鏡は1枚、1枚手造りで行われていました。
中島伊勢は幕府御用達の鏡師となっていた人ですが、その履歴ははっきりしていません。
但し、葛飾北斎を養子としたことは歴史に残っているようで、のちにその縁組が解消していますが、解消後も北斎が中島姓を名乗っていたことから、妾腹の子ではという説もあるようです。
(所在地:墨田区両国3-14-6)
     
 



吉良邸裏門跡
元禄1年12月14日未明に行われた赤穂浪士の討ち入りは、吉良邸の表門と裏門から行われ、表門からは大石内蔵助以下23名、この付近にあった裏門からは大石主税以下24名が、鎖帷子を着込んだ完全武装で討ち入りを行いました。
(所在地:墨田区両国3-14-6)
       
 



江東義塾跡
私塾であった江東義塾は、この辺りにあったとのことで、文豪夏目漱石は、明治19年(1886年)、一高時代の19歳の時にこの塾の教師となり、塾に併設されていた宿舎に泊まりながら、約1年間教師を努めていました。
(所在地:墨田区両国3-9)
      
 



前原伊助宅跡
赤穂浪士の一人である前原伊助(宗房)は、赤穂藩時代に金奉行を努めていたこともあって商才に長けていたことから、江戸゛に出てからは単独行動をとって吉良邸の裏門近くであったこの地で、米谷五兵衛と称して店を営み、吉良家の動向を探り、討ち入りの際には大石主税とともに裏門隊に属していました。
(所在地:墨田区両国3-2-4)
 
     
   
  塩原橋(上)と塩原橋の由来碑(下)
塩原橋は江戸時代に開削された運河(竪川)に架けられた橋で、大正12年(1923年)9月に発生した関東大震災後の復興事業の一つとして昭和3年(1928年)に架けられました。架けられた当初は木製の橋でしたが、その後鋼桁橋に改築されています。
橋の名前は江戸時代の末期に、上州沼田から江戸に出てきて、裸一家から薪炭商人として成功し、「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた立志伝中の人物である塩原太助がこの付近に住んでいたことから、それに因んで名付けられたものです。
私たちの年代ですと落語や浪花節で、「塩原太助一代記」や「愛馬青との別れ」をラジオで聞いていたことがありますけど、今の人たちはほとんど名前も知らないんでしょうね。
(所在地:墨田区両国2丁目)
 
 
   
     
 
 


軍鶏なべ屋「五鉄」
池波正太郎作の小説「鬼平犯科帳」で、火付盗賊改役の「鬼平」こと長谷川平蔵宜以が行きつけの軍鶏なべ屋の五鉄は、作品中で本所二つ目橋(二之橋)の角地で南側は竪川」となっていました。
といっても実在していたわけではありませんが。
(所在地:墨田区両国4-1)
      
 



二之橋由来碑
江戸時代の万治2年(1959年)に開削された竪川に架かる五つの橋の一つで橋で、橋の名前は隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。
「鬼平犯科帳」やその他の時代小説では「二つ目橋」と記されていることが多い橋の名です。
(所在地:墨田区両国4-1)
   
 



本所竪川
葛飾北斎が描いた「富嶽三十六景」のうちの「本所竪川」の絵は、竪川沿いにあった材木問屋付近で描かれたといわれています。
(所在地:墨田区両国4-1)
      
 
   
   小林一茶居住の地
俳人小林一茶が、文化元年(1804年)から当時本所相生町5丁目となっていたこの地にあった借家に住んでいたとのことです。家財を運びこんだ日には『寝始る其夜を竹の時雨哉』と詠んでおり、周辺には竹が多く植わっていたとうかがわれる句とのことです。一茶はこの地で5年ほど活動していましたが、句行から帰ると借家が他人に貸し出されており、『行年を元の家なしとなりにけり』と詠んだそうで、以後弟子や後援者の家を転々としていたと伝えられています。
(所在地:墨田区緑1-1)
 
 
 
 
弥勒寺
真言宗の弥勒寺は万徳山聖光院といい、御本尊が薬師如来であることから「川上薬師」とも呼ばれているお寺で、慶長15年(1610年)に、徳川家康より小石川鷹匠町に寺領を下賜されて創建されたお寺ですが、元禄時代にこの地に移転しており、都の指定旧跡となっています。
境内には総検校として鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した杉山和一(杉山検校)の墓(右の写真)があります。
五代将軍綱吉からから「和一の欲しい物は何か」と尋ねられ、「一つでいいから目がほしい」と答え、この地の近くの本所一つ目に1町四方の土地を拝領したとなっています。
(所在地:墨田区立川1-4-13)

 
 

 




五間堀跡
五間堀は小名木川と竪川を結ぶ六間堀からわかれる入堀で、川幅が5間あったことから川の名がついており、堀が開削された時期は、明暦の大火以降の万治年間(1658~60)ころか、それ以前と考えられています。堀は昭和11年(1936年)と同30年の2度にわたって埋め立てが行われ、現在は五間堀公園となっています。

(所在地:墨田区立川1-4-13)
     
 



長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡
長谷川平蔵は、父宜雄の屋敷替えで19歳の時の明和元年(1764年)にこの地に移り住み、火付盗賊改役となった際には役宅となり、白州や仮牢が設けられていました。(町奉行所は居宅と奉行所が別でしたが火盗改めには奉行所が置かれていませんでした。)
長谷川平蔵死去後の弘化3年(1846年)には、当時南町奉行となっていた遠山金四郎景元が屋敷替えとなって移り住んでいました。
(所在地:墨田区菊川3-16)
 
   
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