東京歴史さんぽ その24
 
 




赤坂御門跡
江戸城には、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための見張り所が、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、内曲輪そして外曲輪に合計36箇所に設けられ「見附」と呼ばれていました。ここ赤坂御門は赤坂見附ともよばれた外曲輪におかれた9箇所の門の一つで、寛永13年(1636年)に完成したもので、枡形門形式の門となっていました。
(所在地:千代田区紀尾井町1)
 
 
 
 
 
     
   
     




紀州藩麹町邸邸の遺構
赤坂御門の石垣の北側にある「空の広場」を囲むようにあるのが、江戸時代にこの近くにあった紀州徳川藩の麹町邸の遺構の石垣を移設したものです。
(所在地:千代田区紀尾井町1) 
   
 
   




弁慶橋と弁慶濠
江戸城の外堀となるこの濠の名は、当初神田岩本町付近を流れていた藍染川に、大工の名棟梁であった弁慶小左衛門が架けた弁慶橋を、藍染川が下水道工事で埋めたられた明治22年(1889年)に移築して架橋したもので、橋の名に因んで弁慶濠と名付けられました。橋は昭和2年(1927年)に架け替えられ、昭和60年(1985年)に現在の橋となりましたが、橋の高欄や擬宝珠は当時の面影を残して設けられています。
   
 
        
 



黒田清輝居住の地
明治時代から大正時代にかけて活躍し、日本の近代美術に大きく貢献した画家であり政治家であった黒田清輝が、フランスから帰国後にこの地に住んでいました。
(所在地:千代田区平河町2-6) 
   



プリンス通り
紀尾井町と平河町の間にある通りで、通りの西側に赤坂プリンスホテルがあったことからその名が付きました。
ホテルはその後グランドプリンスホテル赤坂に名称変更され、2013年に解体されて現在は東京ガーデンテラス紀尾井町が建てられています。
 
   
 



紀伊国坂(左)と赤坂迎賓館東門(右)
紀伊国坂は外堀通りの赤坂見附の交差点から四谷見附方向に上る坂で、その名の由来は江戸時代に坂の西側に紀州藩の上屋敷があったことから名付けられたもので、この辺りで茜草が生える生える赤根山があったことから別名『赤坂』または『茜坂』とも呼ばれており、『赤坂』の地名のもととなっています。
坂を四谷見附方向に向かってゆく途中の左側には赤坂迎賓館の東門があります。この門は、江戸時代に紀州藩徳川家の中屋敷表門であったものです。
(所在地:千代田区元赤坂2-1-2) 
 
 
        
   
紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡
明暦3年(1657年)に発生した振袖火事のあとに幕府よりこの地を拝領して和歌山藩の麹町邸が置かれていました。
(所在地:千代田区紀尾井町4-26) 
 
近江彦根藩井伊家屋敷跡
ホテルニューオータニの入り口付近にあった彦根藩の中屋敷跡で、同藩の上屋敷は、現在憲政記念館がある国会議事堂前にありました。
(所在地:千代田区紀尾井町5-2) 
 
 
 
江戸城喰違見附跡
この辺りは江戸城の外郭城門であった喰違門が置かれていたところで、甲州流軍学者の小幡景憲によって慶長17(1612)年に縄張りが設けられたと伝えられており、ほかの城門は石垣を用いた枡形形式で構築されていますが、この門は両側に小高い土塁を設けて構築されており、十字路ではなく交差する道が少しずれて造られています。
ここでは、明治7年(1874年)に「維新の十傑」の一人であり、政治家であった岩倉具視が高知県出身の士族に襲われるという「喰違の変」(「赤坂喰違の変」または「岩倉具視遭難事件」とも呼ばれています。)という暗殺未遂事件が発生しています。(左の写真は紀伊国坂方向から、右の写真は紀尾井坂方向から撮影)
(所在地:千代田区紀尾井町45-2)

 
 
  



紀尾井坂(左)と清水谷(右)

江戸時代の当初は清水坂と呼ばれていましたが、紀尾井坂の名は、この地に紀州徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家の屋敷が角を接して設けられたことから、江戸の住人たちは、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、井伊家の「井」のそれぞれ一字ずつを取って「紀尾井坂」と呼ぶようになったといわれており、現在の地名「紀尾井町」の名もこの坂の名からつけられています。。
ここでは、明治11年(1878年)の5月14日に、当時内務卿であり明治の元勲と呼ばれた大久保利通と、その従者であった中村太郎が、施策に反対する島田一郎ら6名の不平士族に襲撃され落命するという、紀尾井坂の変(紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」とも呼ばれています。)が発生しています。
(所在地:千代田区紀尾井町)
 
 
 
 



江戸水道の石桝(左)と大久保公哀悼碑(右)
清水谷公園の奥におかれている江戸水道の石桝は、麹町通りの拡幅工事の際に出土したもので、羽村からはじまり四谷大木戸を経て江戸城内他江戸府内の武家地や町屋に給水されていた玉川上水に用いられていた石桝です。
右の写真は公園内におかれている大久保利通公の哀悼碑です。
(所在地:千代田区紀尾井町2-2)
 
 
 




四谷見附跡
江戸城の外堀が完成した寛永13年(1636年)に、他の見附(城門)と同時期に設けられたものです。
(所在地:千代田区六番町)

 
   
 



市ヶ谷御門橋台の石垣石
市ヶ谷駅そばにある市ヶ谷見附交番の南側にあるこの石垣は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣で、寛永13年に造成された市ヶ谷御門の枡形に用いられていたものでした。
右の写真は、地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内にある「江戸歴史散歩コーナー」に展示されている江戸城の外堀関連の発掘調査で出土した遺跡です。
(所在地:千代田区九段北4-4)
 
 
        




番町文人通り
四ツ谷駅から新宿通りを半蔵門方向に歩いてゆくと、左側に「番町文人通り」と書かれた道標が立っています。ここから大妻通りまでの約1km.が番町文人通りと名付けられていて、島崎藤村、泉鏡花、有島武郎、与謝野鉄幹・晶子などの明治から昭和の初期にかけて活躍した文学者たちが住んでいたところです。
 
   

 
 



藤田嗣治旧居跡
明治19年(1886年)に牛込で生まれた画家の藤田嗣治は、幼いころから絵をかきはじめ、東京美術学校(現 東京芸術大学)を卒業し、27歳の時にパリのモンパルナスに移住。ピカソ、モジリアーニらと親交を深め「ツグジ」と呼ばれていました。
昭和12年(1937年)にこの地に移りアトリエを新築し、太平洋戦争小渕村(現在の神奈川県相模原市緑区)に疎開するまで過ごしていたところです。
(所在地:千代田区六番町13-6)
 
 
 



有島武郎・有島生馬・里見淳旧居跡
白樺派の作家で『ある女』や『カインの末裔』を代表作とする有島武郎、画家で「二科会」設立の一人で、白樺派の同人で著書も多く執筆している有島生馬、そして『善心悪心』、『安城家の兄弟』などを執筆した作家の里見淳の三兄弟が住んでいたところです。
(所在地:千代田区六番町3)

 
 



泉鏡花終焉の地
『婦系図』や『高野聖』を代表作とし、明治時代の後期から昭和の初期にかけて多くの著作を発表した泉鏡花が明治43年(1873年)から昭和14年(1937年)に亡くなるまで住んでいたところです。
(所在地:千代田区六番町5)
 
 
 



与謝野鉄幹・晶子旧居跡
明治時代から昭和の初期にかけて活躍した浪漫派の歌人で、雑誌『明星』を主催した与謝野鉄幹が、歌集『みだれ髪』でデビューした情熱の歌人で、妻となった晶子と明治44年から4年間この地で過ごしていました。
(所在地:千代田区四番町9-3)
 

 




串田孫一旧居跡
詩人、哲学者そして随筆家で、人生、山、植物などをテーマにして『山のパンセ』、『ものの考え方』など多くの本を執筆した串田孫一が、昭和13年(1938年)から数年間この地で過ごしていました。
(所在地:千代田区一番町20)
 
 
 



滝廉太郎居住地の碑
『花』、『荒城の月』、『鳩ポッポ』など多くの曲を作曲した滝廉太郎は、明治12年(1879年)に現在の西新橋に生まれ、東京音楽学校(現 東京芸術大学)を卒業した後の、明治27年(1894年)から34年(1901年)にドイツのライプチヒに留学するまでここから100mほど西の所で暮らしていました。
(所在地:千代田区一番町18-1)
 



高野長英 大観堂学塾跡
麹町の貝坂の途中の建物の壁にあるこの碑は、幕末の医者であり蘭学者であった高野長英が、開いていた蘭学塾の大観堂学塾があったところです。
長英は、父が杉田玄白から蘭方医学を学んでいたことから蘭学に興味を持ち、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で蘭学や医学を学び江戸に戻ってこの塾を開いていました。
その後、世情不安定な幕末で、蘭学が隆盛するのを嫌った幕府による蘭学者たちを弾圧する「蛮社の獄」が天保10年(1839年)に発生した際に、潟辺崋山らとともに捕らえられ、永牢終身刑の判決を下され伝馬町の牢屋敷に収監されています。
(所在地:千代田区平河町1-6-13)
   



渡辺崋山生誕地
桜田濠に面した三宅坂小公園の石垣そばに建てられたこの説明があるところは、江戸時代に三河田原藩の上屋敷があったところで、同藩の家臣の子息として渡辺崋山が生まれたところです。
渡辺崋山は、田原藩の年寄役末席(家老職)の時に海防掛りを兼務した際に、江川英龍(通称太郎左衛門)、高野長英らと知り合い蘭学研究のため「尚歯会」に参加しましたが、蛮社の獄で捕らえられ、在所蟄居を命ぜられ田原に移送されるまでこの地に40年間暮らしていました。
(所在地:千代田区隼町4)
              
 
   
   
    
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