東京歴史さんぽ その25
 
 




憲政記念館

国会議事堂正面の国会前庭にあるこの記念館は、昭和35年(1960年)に尾崎行雄を記念する「尾崎行雄記念館」として建てられたものが、議会政治70周年を記念して設立されたものです。
この地は、江戸時代に幕府の大老を務めた彦根藩の井伊直弼の上屋敷があったところで、第二次世界大戦時には陸軍省、参謀本部などがあった場所です。

(所在地:千代田区永田町1—1)
   
   




仮議事堂の門柱(左)と英国議事堂の飾り石(右)

記念館の入り口には、現在の国会議事堂が建設される以前に、霞が関1丁目に建てられた仮議事堂の門柱の頭部と、尾崎行雄記念館の建設を記念して英国政府から贈られた英国国会議事堂で使用されていた飾り石が置かれています。
 
   
 



尾崎行雄像(左)と「人生の本舞台」の石碑(右)

記念館の入り口を入った池の所には尾崎行雄の像があります。
尾崎行雄は、幕末の安政5年(1858年)に現在の相模原市に生まれ、新潟新聞の主筆、朝日新聞の論説委員などを務めた後に、東京府の府会議員となり、東京市長を務めた後に30歳で第1回衆議院議員選挙で当選し、以後25回連続当選して、93歳まで63年間の史上最多となる議員生活を続けており、「憲政の神様」、「議会政治の父」ともと呼ばれています。
   



時計塔

記念館のある国会前庭の噴水池前に建てられているこの時計塔は、昭和35年(1960年)に建てられた三面塔星型の時計塔で、立法・行政・司法の三権分立を象徴しており、当初はスイスから贈呈された時計が用いられていましたが、現在は国産の時計が使用されています。
塔からは毎日、10時・13時・17時・22時にチャイムが鳴動し、その音は5kmほど離れたところでも聞くことができるようです。
 
   
 



日本水準原点標庫(左)と電子基準点(右)

憲政記念館構内の庭にある日本水準原点標庫は、日本の水準の基準点となるもので、この標庫の地下10mほどの所に設けられています。
標庫は明治23年(1890年)に設けられており、設置当初は東京湾の平均海面より23.5000mの所となっていましたが、大正11年(1923年)に発生した関東大震災で地殻変動が生じて24.41405mとなり、平成23年(2011年)に発生した東日本大震災でも変動があって、現在は24.3900mとなっています。
標庫の正面には下部に菊のご紋章のある蓋がありこの中に水準原点が置かれています。また、上部には菊のご紋章と「大日本帝国」と刻まれており、「大日本帝国」と刻まれており、「大日本帝国」がある数少ない公的な建造物となっています。
右の写真は前回(2009年)訪れたときには設置されていなかった電子基準点で、国土地理院が精度の高い測量を行うために構築した、地殻変動を監視するGNSS(衛星測位システム)連続監視システムの観測点です。
この電子基準点は現在国内1300地点に設けられており、GPS衛星、ガリレオ(全地球航法衛星システム)、GLONASS(ロシア軍が構築した衛星低いシステム)そして準天頂衛星システムの各衛星から電波を受信し、地殻変動データを採集しています。
 
 
   
 



櫻の井(左)と近江井伊藩上屋敷跡(右)

かつて加藤清正邸があったところにあるこの井戸は、清正が掘ったと伝えられる井戸で、3本の釣瓶を用いて1度に桶3杯の水をくみ上げていたとのことで、当時江戸城を訪れる街の人たちに重宝がられていたとのことです。
井戸は、歌川広重が描いた「東都名所」で、「外櫻田弁慶櫻の井」として紹介されています。
また、桜田門外の変では近江彦根藩の藩邸から江戸城に登城途中の井伊直弼が、この井戸脇を出た後で暗殺されています。
 
 
   
 



法務省旧本館(重要文化財)

明治28年(1895年)に、時の政府の官庁集中計画によって、ドイツ人建築家エンデとベックマンの設計により、ドイツネオバロック様式で建てられたもので、集中計画は途中で頓挫したようですが、旧大審院(最高裁判所)とともに完成し、明治の公共建築代表する建物となりました。
建物は大正12年に発生した関東大震災ではほぼ無傷でしたが、その後の第二次世界大戦時の空襲で内装と屋根に被害を受けましたが、昭和50年(1975年)に改修工事を行い法務省本館として使用され、さらに平成6年(1994年)の改修で創建時の姿に戻り、法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになりました。
所在地:千代田区霞が関1—1)
 
        
 



米沢藩上杉家江戸藩邸跡

法務省旧本館の生け垣のところにあるこの碑は、豊臣政権の五大老であった上杉景勝が、関ケ原の戦い後に徳川家康によって出羽米沢に移封され、江戸桜田に藩邸を与えられました。
右の写真は碑の下部にある絵図で、江戸時代の初期に描かれた「江戸図屏風」での桜田門周辺の様子です。
(所在地:千代田区霞が関1—1)
 
 
   




大岡越前守忠相屋敷跡

霞ヶ関官庁街の弁護士会館がある霞門交差点角にあるこの碑があるところは、かつて大岡越前守の屋敷があったところです。大岡越前守は江戸時代中期の中級の旗本の家に生まれ、書院番、目付、山田奉行、普請奉行を経て、八代将軍徳川吉宗の時代には南町奉行に就任。
吉宗の享保の改革幕政改革を南町奉行として支え、その後寺社奉行を務めたのちに奏者番を経て、西大平藩(現在の愛知県岡崎市)一万石の初代藩主までのぼりつめた人です。
(所在地:千代田区霞が関1—1)
 
   




海軍省跡・軍令部跡の碑

大岡越前の守忠相の屋敷跡と向かい合うようにあるのが、旧大日本帝国時代の海軍省と軍令部があったところです。

実際には中央合同庁舎第5号館の敷地内となっているので、門衛さんに写真を撮りたいと告げて、受付で身分証明書を提示し、住所、氏名を記帳の上、碑のある場所まで場所まで案内してもらい撮影することとなります。
(所在地:千代田区霞が関1—2)
 
   
 



乃木希典旧居跡の碑

虎ノ門2丁目交差点そばにあるこの碑は、明治時代の軍人であった乃木希典が、歩兵第1連隊長に任ぜられた明治11年(1878年)から翌年8月まで夫人と共に過ごしていたところです。
乃木希典は、明治9年(1875年)に発生した不平士族による秋月の乱を平定、その後に発生した西南戦争に従軍。
日清戦争では歩兵第1旅団長として旅順要塞を1日で陥落させ、日露戦争では第3軍司令官(大将)として参戦し旅順包囲戦の指揮をとって陥落させたことで有名であり、明治45年(1912年)に明治天皇が崩御すると、大葬が行われた大正元年(1912年)9月13日に婦人とともに自刃しています。
(所在地:港区虎ノ門1-22-16)
   



江藤新平君遭難の地

幕末の天保5年に佐賀藩士の子息として生まれた江藤新平は、藩の国学者枝吉神陽が結成した義祭同盟に大隈重信、副島種臣らとともに参加。開国を求める諸外国の船が多く出没するに伴い開国の必要性を説き、藩の洋式砲術、貿易関係の仕事についていました。
その後京都で活動していた桂小五郎や公家の西園寺公知らと接触し、幕府崩壊後の明治新政府において会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当しました。征韓論争が起きたときには西郷隆盛、板垣退助らとともに下野し、佐賀の乱ではその首謀者して捕らえられ処刑されています。(但し、明治22年(1889年にの大赦令公布により賊名を解かれています。)
この碑は明治3年(1870年)に佐賀藩藩士により襲撃されたことを記録として残すために大正5年に設けられたものです。
(所在地:千代田区霞が関3-8)
 
   
 



新聞創刊の地碑

虎ノ門の交差点そばにあるこの碑は、明治7年(1874年)に洋学者子安峻らによって本格的な大衆啓発紙の読売新聞が創刊されたところです。江戸時代の情報伝達方式であった「読売瓦版」からその名が来ていますが、当時漢字教育を得ていなかった市民のために、漢字にふりがなを施して発行されていました。
(所在地:千代田区霞が関3-8)
 
        




虎ノ門金比羅宮

万治3年(1660年)に讃岐丸亀藩の藩主京極高和が芝三田にの藩邸に、金比羅大権現を勧請し、藩邸の移転とともに虎ノ門に遷座されたもので、戦災により焼失しましたが昭和26年(1951年)に再建されており、東京都の歴史的建造物に指定されています。
(所在地:港区虎の門1-2-7)
 
   
 



虎ノ門記念碑

虎ノ門の交差点の横断歩道そばに設けられているこの記念碑は、昭和27年(1952年)に、町の名前が当時の今入町から虎ノ門に改称されて3年を経た記念として、町の「虎の門会」が設けたものです。
この地は江戸城の36あった見附のうちの「虎の門」があったところで、江戸城から見て「寅」の方角にあったことからその名がついています。
(所在地:港区虎の門1-1)
 
 
   




帝国議事堂跡の説明板

経済産業省がある都道ところの301号線の歩道上に設けられているこの説明板のある場所は、わが国で最初となる仮の国会議事堂が明治23年(1890年)に設けられていたところで、当時は木造建築で建てられました。
議事堂は翌年第1回の帝国議会が開催されている期間中に漏電で焼失し、一時期華族会館(旧鹿鳴館)や帝国ホテルで議会を継続、その後この地に再建されていますが、関東大震災跡の大正14年(1925年)に改修中に作業員の火の不始末から火災を発生し、3か月間の突貫工事で再建されています。
(所在地:千代田区霞が関3-8)
 
   




日比谷公会堂

日比谷公園の南側に建てられているこの公会堂は、当時の東京市長であった後藤新平の発案で、昭和4年(1929年)に建設されたもので、収容人員は2000人を超え、かつては東京で唯一のコンサートホールとなっていましたが、東京文化会館やNHKホールなどの多目的ホールの建設により講演会や音楽会の会場に移行しました。
この公会堂では昭和35年に、当時の日本社会党の委員長であった浅沼稲次郎が演説中に17歳の右翼の少年に刺殺されるという「浅沼稲次郎暗殺事件」が発生しています。
なお、現在公会堂は長期休館中となっています。
(所在地:千代田区日比谷公園1-3)
 
   
 



キリノ大統領顕彰碑

第二次世界大戦後、反日感情が根強い中で多くの国民と、自分の夫人と子息三人を失ったフィリピンのキリノ大統領(エルピディオ・キリノ)が、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないためにこれを行うのである。」という声明とともに、当時モンテンルパの刑務所に服役していた日本人戦犯105名を恩赦で釈放しました。
この顕彰碑は、昭和28年(1953年)にキリノ大統領に感謝の意を表するために設けられたもので、日比谷公会堂前にあります。
(所在地:千代田区日比谷公園1)
   



南極の石

昭和41年(1966年)に南極観測船の「ふじ」が持ち帰った石で、南極の昭和基地から4kmほど離れた所にあるオングル島で、南極観測隊が採取したものです。
(所在地:千代田区日比谷公園1-3)
 
 
 



伊達政宗終焉の地

「独眼竜」の名で知られ仙台藩の初代藩主である伊達政宗は、徳川家康より慶長6年(1601年)にこの地に江戸屋敷を与えられ、寛文6年まで江戸屋敷として利用されていました。その広さは現在の日比谷公園の心字池の西端から庭球場の東端、そして南北は日比谷濠沿いから野外音楽堂辺りまでと広大なものであったようで、この藩邸には初代将軍徳川家康、二代将軍秀忠そして三代将軍家光が何度か訪れていたと伝えられています。
正宗は、寛永13年(1636年)に参勤交代で江戸に向かう途中体調不良となり、この藩邸に到着したのちの同年5月24日に68歳で亡くなっています。
(所在地:千代田区日比谷公園1)


 
        




日比谷見附跡

日比谷公園の北東角、日比谷交差点のところにある有楽門のところがかつて江戸城36見附のうちの一つ「日比谷見附」があったところです。かつては枡形門形式で、高麗門、、渡櫓そして番所がありましたが、明治時代の初期に撤去され、心字池沿いに石垣が残るだけとなっています。
(所在地:千代田区日比谷公園1)
 
   
 



鹿鳴館跡の碑

鹿鳴館は、明治16年(1883年)に国賓や海外の外交官を接待するための社交場として設けられたもので、当時の外務卿であった井上馨の推進により収容人員2000人のスペースを持つ総二階建てで、大食堂、談話室、書籍室、舞踏室がありました。
建物は後に華族会館となり、昭和15年(1940年)に取り壊されていて、NBF日比谷ビル(旧大和生命ビル) の帝国劇場側の塀の所にこの碑が設けられています。
(所在地:千代田区内幸町1-1)
   



旧GHQ本部

建物壁に「第一生命」とあるこの建物は、昭和13年(1928年)に第一生命の本社として建てられたもので、第二次世界大戦中は陸軍に接収されて東部軍幹区司令部が置かれていましたが、終戦後占領軍に接収されて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)として昭和27年(1952年)まで使用されていました。
(所在地:千代田区有楽町1-13-1)
 
 
 



楠正成像

皇居外苑の広場にあって、二重橋の正面を見つめる形で置かれているブロンズ製の騎馬像は、建武の中興の忠臣楠正成の銅像で、南北朝時代の武士たちが足利尊氏に加勢していくのに対して最後まで後醍醐天皇に忠誠を尽くした尊王の志士でした。
(所在地:千代田区皇居外苑1-1)
 
 
       




太田道灌公追慕の碑

皇居平川門そばにあるこの碑は、太田道灌が長禄元年(1457年)に江戸城を築城して450年を記念して昭和11年(1936年)に建立されたもので、設置後すでに80年を経過しているため、刻まれた文字が薄くなっており、碑文の文字が判読しにくくなっています。
(所在地:千代田区一ツ橋1-1)
 
 
 



大隈重信候雉子橋邸跡の碑(左)と江戸幕府蔵屋敷の礎石(右)

清水門前にある千代田区役所が入居している九段第三合同庁舎の前に、竹の植栽の所に大隈重信候雉子橋邸跡の碑があります。ここでは二度にわたり内閣総理大臣を務めた大隈重信候が明治9年(1876年)から8年ほど住んでいた屋敷がありました。
また碑の左側には竹の植栽の所に礎石がありますが、この地は江戸時代において、幕府直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩となっており、置かれている石は米蔵の礎石や建物の床を支える礎石して用いられていました。
(所在地:千代田区九段南1-2)
 
 
   
   
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