東京歴史さんぽ その25 |
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憲政記念館 国会議事堂正面の国会前庭にあるこの記念館は、昭和35年(1960年)に尾崎行雄を記念する「尾崎行雄記念館」として建てられたものが、議会政治70周年を記念して設立されたものです。 この地は、江戸時代に幕府の大老を務めた彦根藩の井伊直弼の上屋敷があったところで、第二次世界大戦時には陸軍省、参謀本部などがあった場所です。 (所在地:千代田区永田町1—1) |
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仮議事堂の門柱(左)と英国議事堂の飾り石(右) 記念館の入り口には、現在の国会議事堂が建設される以前に、霞が関1丁目に建てられた仮議事堂の門柱の頭部と、尾崎行雄記念館の建設を記念して英国政府から贈られた英国国会議事堂で使用されていた飾り石が置かれています。 |
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法務省旧本館(重要文化財) 明治28年(1895年)に、時の政府の官庁集中計画によって、ドイツ人建築家エンデとベックマンの設計により、ドイツネオバロック様式で建てられたもので、集中計画は途中で頓挫したようですが、旧大審院(最高裁判所)とともに完成し、明治の公共建築代表する建物となりました。 建物は大正12年に発生した関東大震災ではほぼ無傷でしたが、その後の第二次世界大戦時の空襲で内装と屋根に被害を受けましたが、昭和50年(1975年)に改修工事を行い法務省本館として使用され、さらに平成6年(1994年)の改修で創建時の姿に戻り、法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになりました。 所在地:千代田区霞が関1—1) |
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大岡越前守忠相屋敷跡 霞ヶ関官庁街の弁護士会館がある霞門交差点角にあるこの碑があるところは、かつて大岡越前守の屋敷があったところです。大岡越前守は江戸時代中期の中級の旗本の家に生まれ、書院番、目付、山田奉行、普請奉行を経て、八代将軍徳川吉宗の時代には南町奉行に就任。 吉宗の享保の改革幕政改革を南町奉行として支え、その後寺社奉行を務めたのちに奏者番を経て、西大平藩(現在の愛知県岡崎市)一万石の初代藩主までのぼりつめた人です。 (所在地:千代田区霞が関1—1) |
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海軍省跡・軍令部跡の碑 大岡越前の守忠相の屋敷跡と向かい合うようにあるのが、旧大日本帝国時代の海軍省と軍令部があったところです。 実際には中央合同庁舎第5号館の敷地内となっているので、門衛さんに写真を撮りたいと告げて、受付で身分証明書を提示し、住所、氏名を記帳の上、碑のある場所まで場所まで案内してもらい撮影することとなります。 (所在地:千代田区霞が関1—2) |
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新聞創刊の地碑 虎ノ門の交差点そばにあるこの碑は、明治7年(1874年)に洋学者子安峻らによって本格的な大衆啓発紙の読売新聞が創刊されたところです。江戸時代の情報伝達方式であった「読売瓦版」からその名が来ていますが、当時漢字教育を得ていなかった市民のために、漢字にふりがなを施して発行されていました。 (所在地:千代田区霞が関3-8) |
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虎ノ門金比羅宮 万治3年(1660年)に讃岐丸亀藩の藩主京極高和が芝三田にの藩邸に、金比羅大権現を勧請し、藩邸の移転とともに虎ノ門に遷座されたもので、戦災により焼失しましたが昭和26年(1951年)に再建されており、東京都の歴史的建造物に指定されています。 (所在地:港区虎の門1-2-7) |
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帝国議事堂跡の説明板 経済産業省がある都道ところの301号線の歩道上に設けられているこの説明板のある場所は、わが国で最初となる仮の国会議事堂が明治23年(1890年)に設けられていたところで、当時は木造建築で建てられました。 議事堂は翌年第1回の帝国議会が開催されている期間中に漏電で焼失し、一時期華族会館(旧鹿鳴館)や帝国ホテルで議会を継続、その後この地に再建されていますが、関東大震災跡の大正14年(1925年)に改修中に作業員の火の不始末から火災を発生し、3か月間の突貫工事で再建されています。 (所在地:千代田区霞が関3-8) |
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日比谷公会堂 日比谷公園の南側に建てられているこの公会堂は、当時の東京市長であった後藤新平の発案で、昭和4年(1929年)に建設されたもので、収容人員は2000人を超え、かつては東京で唯一のコンサートホールとなっていましたが、東京文化会館やNHKホールなどの多目的ホールの建設により講演会や音楽会の会場に移行しました。 この公会堂では昭和35年に、当時の日本社会党の委員長であった浅沼稲次郎が演説中に17歳の右翼の少年に刺殺されるという「浅沼稲次郎暗殺事件」が発生しています。 なお、現在公会堂は長期休館中となっています。 (所在地:千代田区日比谷公園1-3) |
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伊達政宗終焉の地 「独眼竜」の名で知られ仙台藩の初代藩主である伊達政宗は、徳川家康より慶長6年(1601年)にこの地に江戸屋敷を与えられ、寛文6年まで江戸屋敷として利用されていました。その広さは現在の日比谷公園の心字池の西端から庭球場の東端、そして南北は日比谷濠沿いから野外音楽堂辺りまでと広大なものであったようで、この藩邸には初代将軍徳川家康、二代将軍秀忠そして三代将軍家光が何度か訪れていたと伝えられています。 正宗は、寛永13年(1636年)に参勤交代で江戸に向かう途中体調不良となり、この藩邸に到着したのちの同年5月24日に68歳で亡くなっています。 (所在地:千代田区日比谷公園1) |
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日比谷見附跡 日比谷公園の北東角、日比谷交差点のところにある有楽門のところがかつて江戸城36見附のうちの一つ「日比谷見附」があったところです。かつては枡形門形式で、高麗門、、渡櫓そして番所がありましたが、明治時代の初期に撤去され、心字池沿いに石垣が残るだけとなっています。 (所在地:千代田区日比谷公園1) |
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太田道灌公追慕の碑 皇居平川門そばにあるこの碑は、太田道灌が長禄元年(1457年)に江戸城を築城して450年を記念して昭和11年(1936年)に建立されたもので、設置後すでに80年を経過しているため、刻まれた文字が薄くなっており、碑文の文字が判読しにくくなっています。 (所在地:千代田区一ツ橋1-1) |
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