東京歴史さんぽ その8  
        
天王寺    
日暮里駅の西口を出てすぐのところにある天王寺(所在 台東区谷中7-14-8)、正式なお寺の名前は護国山尊重院天王寺といい、文永11(1274)年に日蓮の弟子であった日源の開山によるもので、創建当時は長耀山感応寺という名前でした。
江戸時代の寛永18(1641)年には徳川家光、春日局などの保護を受けて将軍家の祈祷所となり寺領は約3万坪あったといわれています。
元禄時代には法華信者以外からは布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派にあったため改宗を命じられ、廃絶の危機に見舞われましたが、天保4(1833)年に僧日啓が娘であるお美代(第11代将軍家斉の側室)が中野領翁、林肥後守などを動かして寺名を「護国山天王寺」とすることで廃寺を免れました。
寺では元禄時代に幕府公認の富籤が行われ、目黒不動、湯島天神とともに「江戸の三富」としてにぎわっていました。
寺は江戸時代末期に彰義隊の兵火により五重塔と本坊以外を焼失しています。
 
       
天王寺の五重塔は、明和9(1772)年に発生した江戸三大大火のひとつといわれる明和の大火(「目黒行人坂大火」とも呼ばれています。)で焼失、その後近江出身の大工八田清兵衛により寛政3(1791)年に再建され、明治25(1892)年には幸田露伴の『五重塔』の舞台となったところで、明治41(1908)年に東京市に寄付され東京市の名所としてまた、谷中霊園のシンボルとなっていましたが、昭和32(1957)年に心中による放火(谷中五重塔放火心中事件)により塔の心柱を残して焼失、以来礎石を残すだけとなっています。    
   
  高橋お伝の墓
谷中霊園にあるこの石碑は、「明治の毒婦」と呼ばれた群馬県利根郡生まれの本名「高橋でん」の墓で、高橋でんは、強盗殺人の罪で、明治12(1879)年に、八代目山田浅右衛門の弟山田吉亮によって、日本で最後に斬首刑に処せられた女性です。
尚ここにはお骨が入っておらず南千住にある小塚原回向院にあります。
    川上音二郎像の台座
川上音二郎は、幕末の黒田藩の郷士の子として生まれ、「オッペケペー節」で明治時代の世相を風刺して一世を風靡し、自身が始めた書生芝居、壮士芝居がその後の「新派」のもととなり、「新派劇の父」と称される人です。
台座の上には銅像がありましたが第2次世界大戦中の資源不足を補うため発令された金属類回収令により供出されており、その後は復元されることなく現在に至っています。
 
    
谷中霊園内には最近ではあまり見かけない、竹を使った垣根のサンプルが造られて置かれています。  
   
矢来垣
「竹矢来」とも呼ばれる「透かし垣」の一種で、竹を斜めに組み合わせ交差部をシュロ縄で結んでいます。この竹垣は背が低いですが、通常は長さが2mほどあり上部を斜めに切断して侵入防止としていたようです。
  金閣寺垣
背の低い透かし垣で、京都の金閣寺にある垣根が発祥といわれており、通路と庭の境目や小さな庭の装飾に用いられ、太い竹を半割にして上部の玉縁(たまぶち)としているのが特徴です。
 
 
      
   
建仁寺垣
京都の建仁寺で用いられたのがはじめといわれる遮蔽垣の一種で、割竹を隙間なく縦に並べて、押し縁を水平に取り付け、上部に笠を設けています。
  大津垣
江戸時代の大津街道沿いで設けられていたことからこの名がついたといわれる遮蔽垣の一種で、割竹または篠竹を用いて交互に編み込むことで遮蔽性を保ちつつ通風も考慮した垣根です。
 
     
   
鉄砲垣
火縄銃を横に渡した木材に裏表交互に立てかけたことからこの名がついたといわれる遮蔽垣の一種で、丸竹を用いて裏表交互に取り付けシュロ縄で取り付けてあります。袖垣として用いられることが多い技法です。
  木賊(とくさ)垣
割竹を用いて押縁を用いずにシュロ縄で結んだり、釘で止めて造る垣根で、草の木賊に似ていることからこの名がついており、境界や塀、袖垣に用いられています。
 
 
     
このほかにも竹を用いた垣根には、金閣寺垣、銀閣寺垣、龍安寺垣、大徳寺垣といったお寺の名がついたた垣根や形状、地名、人名のついた垣根があるようです。  
    
徳川慶喜の墓
徳川慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の第七子として生まれ、第十四代将軍家茂を補佐した後に、慶応2(1866)年に十五代将軍となり、慶応3(1867)年に大政奉還、翌慶応4(1868)年には鳥羽・伏見の戦いで薩長連合の新政府軍に敗れ、江戸城を開城した最後の征夷大将軍です。
将軍退位後は駿府に隠居し、趣味に没頭する生活を送っていましたが、その後東京に戻り、貴族院議員を務めていました。
   
 
   
狩野芳崖の墓(左)と碑(右)
谷中霊園のそばにある長安寺(所在 台東区谷中5-2-22)には明治初期の日本画家狩野芳崖の墓があります。
明治維新後の西洋画の流入によりかつての日本画の人気は凋落、芳崖も窮乏に陥りましたが、狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立しました。晩年には岡倉天心、狩野勝川院雅信らとともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力、開校直前の明治21(1888)年に亡くなられています。
右側の石碑は、大正7(1917)年に建てられた芳崖の略歴と功績を刻んだものです。
 
 
 
     
観音寺(台東区谷中5-8-28)
長安寺と道一本隔てて西側にあるこのお寺は、慶長年間に神田北寺町に創建され、当初は長福寺と称していましたが、その後当地にった後に現在の寺名に改称しています。
赤穂浪士に名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺の住職第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、寺では浪士の会合がしばしば行われたとのことで、境内には討ち入り(元禄15年12月14日(1703年1月30日)) 後の宝永4(1707)年に、赤穂浪士供養塔(右の写真)が建立されています。
   
 
     
夕焼けだんだん
日暮里駅から谷中銀座の方向に歩いてゆくと道がYの字となります。左側は車が通行できますが、右側は50mほどで階段となります。階段は傾斜15度、段数36段、高低差4mとそんなに急な坂ではありませんが、夕焼けの絶景スポットになっているとかで、訪れる人が少なくないようです。訪れたときはいませんでしたが、飼い猫、野良猫が多くいるので「夕焼けにゃんにゃん」とも呼ばれています。
(所在荒川区西日暮里3-10、14)
     
 
     
岡倉天心記念公園(所在 台東区谷中5-7)
夕焼けだんだんの階段を下りきってすぐのところにある四つ辻を左に曲がって約2分にあるのがこの岡倉天心記念公園です。
ここは日本の近代美術の先駆者であった岡倉天心の旧宅があったところで、明治31(1898)年にはこの地に日本美術院を創設し、明治39(1906)年に茨城県五浦に移るまで活動を行っていたところです。
公園は広さが700㎡とそれほど大きなものではありませんが、天心を記念した六角堂が建てられています。
   
     
経王寺の山門
荒川区西日暮里にある経王寺、明暦元(1655)年に創建された日蓮宗のお寺で、境内にある大黒堂には日蓮上人作といわれる大黒天が祀られています。
このお寺は、慶応4(1868)年の上野戦争の際に新政府軍に敗れた彰義隊が立てこもったため、天保7(1836)年に建てられた山門には、新政府軍より受けた銃撃の弾痕が残っています。
(所在 荒川区西日暮里3-2-6)
   
 
     
「夕焼け小焼け」の歌碑
小さいころにみんながよく歌っていた「夕焼け小焼け」の歌は、大正8(1919)年に野口雨紅の詞に大正12(1923)年に草川信が曲を付けた童謡ですが、童謡の舞台となったのは八王子市の恩片町とのことですが、雨紅が詩を造った当時荒川区の第二日暮里小学校の教師であったことから同校の敷地に設置されています。
   
     
御行の松
台東区根岸にある西蔵院の不動堂にあるこの松は、江戸時代から「根岸の大松」として人々に親しまれ、『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた松の木です。
その名の由来は、江戸時代の寛永寺の門主であった輪王寺宮が、上野山内の寺院を巡拝されたときに、この木の下で必ず休まれたことから名付けられたとか、木の下で行法を修したからともいわれております。
初代の御行の松は幹回り4m、高さ13mあり、樹齢350年といわれ大正15(1926)年には当時の東京市の天然記念物に指定されましたが、昭和3(1928)年に枯死しており、現在あるのは3代目の松の木です。
(所在 台東区根岸4-9-5 西蔵院境外仏堂不動堂内)
     
 
     
子規庵
俳句、短歌、新体詩、小説など多岐にわたる活躍で、日本の近代文学に多大な影響を与えた正岡子規(本名 正岡常規)が、明治27(1894)年から亡くなった明治35(1902)年まで住んでいた家で、当時の建物は、昭和20(1945)年3月の東京大空襲により焼失しましたが、昭和25(1950)年に弟子の寒川鼠骨らによって再建されたもので、子規生存当時の面影を残す家と庭が一般公開されています。
(所在 台東区根岸2-5-11)
   
     
     
     
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