鶴見と生麦  
  
 
   


横浜熊野神社

神社の由緒はおよそ1200年前の弘仁年間に創建されたものと伝えられ、徳川家康が江戸に入る際に立ち寄り、天下泰平、国家安穏、武運長久を祈願したとされています。
創建時は鶴見川の西側にありましたが、明治3年の鉄道建設によりこの地に移転したものです。
境内には江戸時代の俳人
加舎白雄と大島蓼太が東海道鶴見橋を読んだ句碑があり、 「朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜 白雄」と「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱 蓼太」の二句が刻まれています。

(所在地:鶴見区市場東中町9-21)
   
 
        
 

市場村一里塚

石碑(左の写真)には「武州橘樹郡 市場村一里塚」と刻まれていますが、ここは日本橋から5里目にあたる一里塚のあったところで、明治9(1876)年の地租改正の際に払い下げられたもので、当時は榎の大木がありましたが、現在は石碑と小さな祠(中央の写真)が残っているだけです。
横浜市内に残る一里塚は、ここと戸塚にある品濃一里塚となっています。
当時この近くには六郷川(現 多摩川)の支流が流れていたようでそこに架かる市場橋の親柱が残されています。(右の写真)

(所在地:鶴見区市場西中町4-8)
   
 
     


鶴見橋関門旧跡

現在鶴見川橋と呼ばれいている橋は、東海道が整備された慶長6(1601)年頃に架設された「釣海橋」が最初のもので、徳川家康が川で鶴を見たことから「めでたいから「鶴見橋と呼んでくれ」といったことから橋の名が改名されたと伝えられています。
安政6(1859)年に横浜港が開港され、外国人に危害を加えることを恐れた神奈川奉行が、横浜に入るものを制限するため、関門や番所を設けました。
鶴見橋関門は万延元(1860)年に設けられ、橋の際に左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋を縫って設けられたていました。
文久2(1862)年8月にここから2.5km神奈川宿寄りの生麦で、「生麦事件」が発生したため、その後警備を強化するため川崎宿から保土ヶ谷宿にかけて20ヶ所の番所が設けられましたが、ここには5番目の番所が橋際に設けられました。
なお、番所は慶応7(1867)年に廃止され、関門は明治4(1871)年に廃止されています。

(所在地:鶴見区中央2-19-19)
   
 
     


寺尾稲荷道の道標

江戸時代に、この場所には三家稲荷というのがあり、旧東海道の鶴見橋(現 鶴見川橋)から、寺尾、小杉への分岐点となっていました。
道標に刻まれた寺尾稲荷(現 馬場稲荷社 所在地:鶴見区馬場3-17)は、寺尾城の近くにあった稲荷社です。寺尾城の第五代城主であった、諏訪右馬之助が馬術が下手で、稲荷社に祈願したところ大願成就したことから、馬術上達、馬上安全の祈願に、江戸をはじめ各地から参拝する人が多かったといわれています。
左の写真は、分岐点に建てられた道標の複製で、右の写真は、鶴見神社境内におかれている、文政11(1828)年に再建された道標で、左側面に「宝永二乙酉二月初午 寛永三庚午十月再建 文政十一戊子四月再建之」と刻まれており、2度建替えられていることから、当時信仰が篤かったことがうかがえます。

(所在地:鶴見区中央2-10-7)

寺尾城は、現在の鶴見区馬場3丁目付近にあった中世の山城で、15世紀中頃(永享年間と推定されています)に、後北条氏の家臣である諏訪氏によって地上されたと伝えられていて、永禄年間の武田信玄による小田原攻めの際に武田軍によって落城したと伝えられています。
現在は宅地化が進んで、わずかに土塁などの遺構が残っているだけのようです。
   
 
     


鶴見神社

鶴見神社は、横浜・川崎間では最古の神社といわれ、7世紀初めの推古天皇の時代に創建されたと伝えられており、古くは杉山大明神と呼ばれていました。現在の社名になったのは、大正9(1920)年のことです。
神社の社殿は、宝暦3(1753)年に再建されましたが、明治44(1911)年に火災のため焼失し、大正4(1915)年に再建されたものです。

(所在地:鶴見区中央1-14-1)
   
     

                        富士塚と富士浅間社
 
 

貝塚跡の説明板

神社の本殿前や周辺からは、平成20年の発掘調査で、弥生時代末期から古墳時代前期と推定される、厚さ80cmにも及ぶカガミガイ、ハマグリ、イボキサゴなど8種類もの貝殻の貝層が見つかり、また、近くには古墳時代の竪穴式住居も発見されており、「鶴見神社境内貝塚」として、横浜市の史跡に指定されています。
 
     


總持寺

京浜四大本山のひとつであり、曹洞宗の大本山である總持寺は、正式には諸嶽山總持寺といい、能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)にあった諸嶽観音堂がその前身で、元享2(1322)年に後醍醐天皇より、「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称したものです。
創建時の寺は明治31(1898)年に火災で焼失し、明治41年に現在の地に移転し、旧地の寺院は總持寺祖院と改称されています。
寺の敷地は50万㎡あり、鶴見区の広域避難場所に指定されています。境内には多くの堂宇の他、鶴見大学などの学校施設があります。

(所在地:鶴見区鶴見2-1-1)
   
   
 
       
   
三松関

参道を歩いて行くとあるのが、寺の総門となる三松関(さんしょうかん)です。門の中央には、總持寺中興の祖といわれる、石川素童禅師揮毫による「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と大書された扁額が掲げられています。
門は、総門としては特異な高麗門の様式で建てられており、国の登録有形文化財となっています。
  三門

正面に「諸嶽山」と書かれた扁額がある三門は、昭和44(1969)年に鉄筋コンクリート造りで建てられたもので、その大きさは日本一のものです。
 
   
   
香積台

香積台(こうしゃくだい)は寺の総受付となるところで、売店や休憩所もあります。香積の意味は「香気が充満している世界」ということです。(登録有形文化財)
  向唐門

大正14(1925)年に建てられた向唐門(むかいからもん)は、切妻造、檜皮葺の四脚門で、前後に唐破風を付けており、普段は開扉されず、禅師の入山式や特別な行事の際のみに開扉されます。
(登録有形文化財)
 
   
 
金鶏門と百間廊下

境内の外苑と内苑を分ける百間廊下(右の写真)には、東側に金鶏門(きんけいもん)に、中央に玉兔門(ぎょくともん)、西側に中雀門と3ヶ所に門が設けられており、東西の建物をつなぎ合わせていて、廊下の長さは164mあります。
(登録有形文化財)
 
 
   
   
待鳳館

待鳳館(たいほうかん)は、總持寺の迎賓館となる建物で、大正4(1915)年に建設された尾張徳川家の旧書院を、昭和32(1957)年に移築したものです。 (登録有形文化財)
  大祖堂

一般的には「開山堂」と呼ばれるこの仏殿は、昭和40(1965)年に建てられたもので、高さは36mあり、内部は千畳敷の大建築物です。 
 
     
   
仏殿

寺の伽藍の中心部にある仏殿は、大雄宝殿とも呼ばれ、大正4(1915)年に建立されたもので、入母屋造、本瓦葺の一重裳階造りとなっています。 (登録有形文化財)
  放光堂

山形県鶴岡市にある総穏寺の本堂として、安政年間(1854~1859)に建立されたものを、明治44(1911)年に移築したもので、檀信徒の位牌を祀っており、入母屋造、桟瓦葺となっていて、桁行が30mある建物です。
 
     
   
三寶殿

三門の東側にある丘を登ったところに建てられていて、總持寺の守護神である三寶大荒神を祀っており、身体健全・心願成就・交通安全・合格祈願などの祈祷を行っています。(登録有形文化財)
  大梵鐘

鐘楼にある関東一の大きさの梵鐘は、大正2(1913)年に鋳造されたもので、重量は18.75t。(登録有形文化財)
 
 芭蕉菴桃青像    
 
平成救世観音像と祈りの鐘

平成救世観音像(左の写真)は、平成20年に仏殿脇に建立されたものですが、平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災の三回忌の際に、この雙眸丘(ふたみがおか)に被災地の方向を向いて遷座したものです。
観音像の横にある祈りの鐘(右の写真)は、寺で所蔵していた大磬子(けいす)を再鋳造して3基の鐘とし、犠牲者への慰霊と早期復興を願って設けられたものです。

磬子とは、家庭の仏壇で使用する「鈴」を大きくしたもので、読経の時などに打ち鳴らす鉢型の梵音具です。
 
 
     
 
ラッド博士の碑

鐘楼の傍に建てられたこの碑は、ジョージ・トランブル・ラッドというアメリカの碑で、心理学者、教育者、神学者で、明治25(1892)年に帝国大学(現・東京大学)の招待を受け心理学の講演を行い、その後、韓国統監に就いていた伊藤博文の依頼を受けて朝鮮(現・韓国)に渡り、伊藤博文への助言者、教育者として朝鮮で講演など活動を行った人で、日本の心理学の発展に寄与した人です。
博士はアメリカで逝去しましたが、遺族によってその遺灰の一部がこの總持寺埋葬されて、この記念碑が建てられたものです。で
   
芭蕉菴桃青像

芭蕉二百三十年遠忌の大正12(1923)年に建立されたもので、芭蕉の座像が刻まれています。
 
     


道念稲荷社

生麦の旧東海道沿いにあるこの神社は、創建年代は不明ですが、『新編武蔵風土記稿』には、「宝暦3(1753)年に再建す」とあります。
この神社では、横浜市の指定無形民俗文化財となっている「蛇も蚊も祭り」が、毎年6月の第1日曜日に行われています。
神社横にある説明板では、「300年ほど前に疫病が流行ったときに、悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると記載されており、萱で作った蛇体を、若者や子供が担いで、『蛇も蚊もでたけ、日和の雨け、出たけ、出たけ』と、大声で唱えながら町内を担いで回ると」記載されています。
祭りは、当初は旧暦の端午の節句の行事となっていました。

(所在地:鶴見区生麦4-27-21)
   
 
     


生麦事件発生現場

江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、薩摩藩第12代藩主島津茂久の父である、島津久光の行列を、川崎大師に馬で向かう途中のイギリス人たちが、「行列の行き先をさえぎった」として、伴回りの藩士たちが1名を殺害2名に傷を負わせるという、殺傷事件が発生しました。後に伝えられる「生麦事件」の発生現場です。
当時、国内は尊王攘夷運動が激しくなっている最中であり、安政3(1856)年に米国の初代駐日公使ハリス襲撃未遂事件、安政6(1859)年にロシア海軍軍人殺害事件万延元(1860)年にはヒュースケン殺人事件、文久元(1861)年にはイギリス公使館襲撃事件(東禅寺事件)など多くの外国人襲撃・殺人事件が発生しており、事件処理に対する幕府の姿勢もあって、翌文久3年に発生した薩英戦争の発端ともなった事件です。

(所在地:鶴見区生麦4-25-41)
   
     


生麦事件の碑

事件発生現場から西に約700m離れたところに建てられたこの碑は、薩摩藩士に襲われたイギリス人4名のうちの1人であるチャールズ・レノックス・リチャードソンが傷つきながら逃げ絶命した場所に建てられたものです。
碑は、高速道路工事のため、更に200mほど離れた、キリンビール横浜工場の南西の角に移設されています。
また、そばには「生麦事件ゆかりの井戸跡」と刻まれた石碑もありますが、こちらは説明書きもなく、ネットで調べても何がゆかりか調べることができません。

(所在地:鶴見区生麦1-14-2)
     
 
     


鶴見事故慰霊塔

鶴見事故は、昭和38(1963)年11月9日の21時40分ごろに、東海道本線の鶴見駅と新子安駅の間にある滝坂不動踏切付近で、定刻より4分遅れで走行中の品鶴線の佐原発野洲行き下り貨物列車が突然脱線し、東海道線の線路を進行中の久里浜発東京行き上り横須賀線電車、さらに下り線を走行中の東京発逗子行き電車が相次いで進入してきて衝突した多重列車事故です。
貨物列車の脱線はカーブ地点で発生しており、後の調査で、車両の問題・積載状況・線路状況・運転速度・加減速状況などが複雑に絡み合った競合脱線でしたが、貨物列車に衝突した上り列車は90km/h前後の速度で進行中であり、下り列車は河川の異常を検知して減速中でしたが、停止することもできずに衝突するという大惨事となり、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出すこととなりました。
事故が発生した日は、福岡県大牟田市の三池炭鉱で、死者死者458人を出した大爆発事故が発生したこともあり、当時、、「血塗られた土曜日」、「魔の土曜日」と呼ばれました。

所在地:鶴見区岸谷1-2-9)
   
     
     
     
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