ウィーン その1
 
オーストリアの首都であるウィーン(Wien)、第一次次世界大戦が勃発するまでは、ハプスブルク家の支配下のもとで、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として長い間君臨した都市であり、それ以前においても神聖ローマ帝国の帝都でもありました。
ウィーンの街にはユネスコの世界文化遺産2件あります。一つは1996年に登録された「シェーンプルン宮殿と庭園群」、もう一つは2001年に登録された「ウィーン歴史地区」です。前回8年前に訪れたときは、初日と最終日で合わせて1日あるかないかの時間の中での観光でしたが、今回は1日半あります。京都の旅友Sさんと自由行動の作戦を練ってから観光開始です。
 
 



リヒテンシュタイン庭園宮殿(Gartenpalais Liechtenstein)

全員での観光開始前にSさんと朝の散歩で訪れたのが、ホテルのそばにあるこの宮殿です。
ボヘミアのリヒテンシュタイン公爵家の三代目当主であったヨハン・アダム・アンドレアス(Johann Adam Andreas)の時代に、バロック様式の建てられた邸宅で、現在は公爵が蒐集した美術品が展示されているほかにイベント会場として利用されています。

庭園内は無料で入れますが、美術館は有料となっています。
   
   
 
   
午前8時15分全員そろってシェーンブルン宮殿へ、天気は快晴、いい写真が撮れるかな?  
   



シェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)

神聖ローマ皇帝マティアスが狩猟時に発見した泉を、美しい(schön)泉(Brunn)と命名したと伝えられるこの地に、1693年に時の神聖ローマ皇帝レオポルド1世が狩猟用の別荘を建てたのがはじまりで、女帝マリア・テレジアの時代にロココ様式で完成しました。
宮殿内には合計で1441室もの部屋がありますが、一般に公開しているのはそのうちの約40室、一部は一般市民に賃貸住宅として貸与しているほか、最近ではホテルとしても利用されている部分があるとのことです。
宮殿に併設された庭園は、東西約1.2km、南北約1kmという広大なもので、北西端側には日本庭園も設けられています。
   
 
 
 
宮殿の外壁は、黄金に近い黄色で塗装されており、「テレジア・イエロー」と呼ばれていますが、当初黄金を塗ろうとする案も考えられたようですが、マリア・テレジアが財政を考慮してこの色に落ち着いたとのことで、特に好きな色ではなかったとのことです。  
 
 
   
宮殿のテラスから見るフランス式庭園。
庭園の奥にはネプチューンの噴水があり、 更にその奥には未完成となっていますが、19世紀末のプロイセン戦争の勝利と戦没者慰霊のための記念碑グロリエッテがあります。
  
庭園から見る宮殿正面(建物の横幅は180mあります。)
ネプチューンとグロリエッテ
 
   



アルベルティーナ美術館(Albertina)

この美術館は、18世紀の半ばに、テシェン公国の公爵アルベルト・カジミール(Albert Kasimir von Sachsen-Teschen)が、自身と妻であるマリア・テレジアの娘マリア・クリスティーナが所蔵していたコレクションとかつてのオーストリア帝国の宮廷図書館のコレクションを併合して展示しているもので、その数は素描が約65,000点、版画約100万点、そのほかにもグラフィック作品や写真も展示されている世界有数の美術館です。
   
 
   
ウィーン国立歌劇場(Opera Wiener Staatsoper)
フランツ・ヨーゼフ1世の時代の1869年に完成したこの歌劇場、ウィーン都市改造計画の一環としてウィーン市庁舎やブルク劇場とともに建設された「ウィーン帝立・王立宮廷劇場」が前身で、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を上演してこけら落としが行われました。
劇場は、第二次世界大戦時にドイツ軍の爆撃により破壊され炎上しましたが、1955年に再建され、ベートーヴェンの「フィデリオ」の上演より再開されており、オペラ、バレエが上演されています。
 
 
   
下の4枚の写真は、ツアーでご一緒した横浜のKさんが、オペラ座内部を撮影したものをお借りしています。  
 
   
 
   
オペラ座の前で一時解散、夕方5時半過ぎまで自由行動となり、京都の旅友のSさんに横浜から参加していたSさんが加わって3人で街歩きです。  
     



:ケルントナー通り(Kärntner Straße)

ウィーン国立歌劇場のあるカールスプラッツからシュテファン寺院に至る道で、道の両側にはカフェや色々なお店が建ち並び、歩行者天国となっていることもあって大勢の観光客が街歩きしています。
     
 
   



ドンナーの泉(Donner brunnen)

ケルントナー通りからドナーガッセの道に入り、ノイアー・マルクト(Neuer Markt)に出たところにある噴水で、ウィーン生まれの彫刻家ゲオルグ・ラファエル・ドンナー(Georg Raphael Donner)によって1739年に造られたものです。
 
   



シュテファン大聖堂(Stephansdom)

ウィーンのシンボルともなっていて、シュテファン寺院とも呼ばれるゴシック様式の大聖堂は、ウィーン司教区の司教座聖堂で、オーストリア公ルドルフ四世の命により、12世紀半ばから14世紀半ばにかけて創建されたもので、高さ136.7mある南塔は65年かけて造られたものですが、ドイツのウルム大聖堂(161m)、ケルン大聖堂(157m)にに次いで3番目の高さとなっています。


下の3枚の写真はツアーでご一緒した横浜のKさんが撮影したものをお借りしています。
   
 
   
   
 
   



シュテファン寺院を見てから3人で昼食を食べ、街歩き開始ですが、その前にザルツブルクと同じように市内の地下鉄、トラムが乗り放題となる『ヴィエナ・シティ・カード(VIENA CITY CARD)』を購入です。
事前に調べたときは、1日券(使用開始から24時間有効)のカードが13.9€となっていましたが、なぜか8€で購入できました。


カールツプラッツ(Karlsplatz)の駅からトラムのDラインでシュロス・ベルヴェデーレ(Schloss Belvedere)駅まで乗って、ベルヴェデーレ宮殿に移動です。
 
   



ベルヴェデーレ宮殿(Schloss Belvedere)

この宮殿は、サヴォイア家の血くフランスの貴族で、ハプスブルク家に仕えていたプリンツ・オイゲン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan)が、夏の離宮として1723年にバロック様式で建てたものですが、オイゲンの死後にハプスブルク家に売却されました。
現在は、オーストリア絵画館(オーストリア・ギャラリー[Österreichische Galerie Belvedere]とも呼ばれています。)となっており、19世紀末から20世紀初頭にかけての絵画を中心として
してコレクションしており、特にグスタフ・クリムトのコレクションが有名です。
絵画館は有料ですが、庭園は無料で見学ができます。

京都のSさんはクリムトの絵が見たいといって美術館に、私と横浜のSさんは庭園の写真撮影です。
 
 
   
 
   
 
   
 
   
 
 
市立公園(Stadtpark)
ウィーンの中心部であるリンクのそばに設けられたこの公園は、ウィーン市長アンドレアス・ツェインカの時代の1862年に造られたウィーンで初めての公立の公園です。ウイーンの街は「音楽の都」又は「楽都」とよばれており、公園内にはモーツァルトをはじめ音楽家や画家などの像が多く置かれています。
ただ、この公園近くには高層ビルを建てる計画があり、2017年にユネスコは「ウィーン歴史地区」を危機遺産リストに登録しており、世界遺産に登録される基準の古い街の景観を維持するか、街の発展を願うか難しい問題となっていて、今後の対応次第によっては、2007年に登録抹消されたオマーンの「アラビアオリックスの保護区」、2009年に登録抹消されたドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」に続く3件目の登録抹消にもなりかねません。

 
 
 


アンドレアス・ツェリンカ像

アンドレアス・ツェリンカ(Andreas Zelinka)は、1802年にチェコで生まれ、ウィーン大学卒業後に弁護士となり、その後ウィーンの市議会議員となって、1861年から1868年までウィーン市長を務めた人です。
(1869年67歳で死去)
   


フランツ・ペーター・シューベルト像

「歌曲の王」と呼ばれるフランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)は、1797年にウィーンで生まれた作曲家で、6歳の時に、アマチュア音楽家であった父よりバイオリンの手ほどきを受けて才能を発揮。
友人たちの支援を受けて勉学し、、1810年には『4手ピアノのためのファンタジア 』を発表して以来多くの作品を発表しましたが、1828年にわずか31歳という若さで亡くなりました。
その作品の数は600曲にも及ぶとのことですが、代表作には『交響曲第7番 ロ短調 「未完成」』、『魔王』、『冬の旅』などがあります。
              
 


ハンス・マカルト像

ハンス・マカルト(Hans Makart)は1840年にザルツブルクで宮廷官吏の息子として生まれ、幼少期に父親を亡くしたことから、叔父の世話を受けつつ絵画の勉強を行い、ミュンヘンの美術アカデミーで研鑽を続けて才能を発揮。
29歳の時にウィーンの美術アカデミーの教授を務めウィーンの画壇の中心となりました。
代表作には、ルーベンス生誕300年を祝して1878年に制作した『カール五世のアントワープ入城』(ハンブルク美術館所蔵)『五感』(ベルヴェデーレ宮殿美術館所蔵)などがあり、「画家の王」と呼ばれています。(1884年44歳で死去)
   


エミール・ヤーコプ・シンドラー

エミール・ヤーコプ・シンドラー(:Emil Jakob Schindler)は、1842年にウィーンに生まれた画家で、19世紀末のオーストリアで、フランスでの印象派とは趣を異にした、独特の風景画(「情緒的印象主義」あるいは「雰囲気の印象派」呼ばれる画壇の中心人物でした。
(1892年に50歳で死去)
 
 


ヨハン・シュトラウス記念像(Johann Strauß Denkmal)

「音楽の都」あるいは「楽都」と呼ばれるウィーンには多くの音楽家の像がありますが、この公園で一番目立つのがこの像ではないでしょうか。
着いた時は、かの国の人たちが大勢いて順番にポーズを取りながら写真を撮っているので、そばにあるレスランでお茶を飲んでから戻ったところ今度は誰もいません。我々3人で独占状態、といってもお爺さん3人ですからポーズしての撮影はありませんけど。
記念碑は、純白の大理石のレリーフで造られ、中央には金色色でヴァイオリンを弾く姿の「ワルツ王」とも呼ばれる、ヨハン・シュトラウス2世の像があります。
この像は、シュトラウスが亡くなってから22年後の1921年に建てられたもので、除幕式ではウィーンフィルハーモニーが、代表曲のひとつである『美しく青きドナウ』を演奏したとのことです。
   
 
   


ベートーヴェン記念碑(Beethoven Denkmal)

市立公園のそばにあるウィーン・サイクリング・スクール(Schulterblick - The Vienna cycling school)の広場にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の記念碑があます。
ドイツのボンに生まれて、「楽聖」とも呼ばれるベートーヴェンは、16歳の時に初めてウィーンを訪れ、22歳の時にハイリゲンシュタット(現在はウィーン19区のひとつですが、当時は基礎自治体でした。)に移住し、56歳で亡くなるまでこのウィーンで多くの名曲を作曲しました。
   
 
   



ウィーン・コンツェルトハウス( Wiener Konzerthaus

ロートリンガー通り(Lothringerstraße)沿いにあるこのコンサートホールは、1913年に建てられたもので、こけら落としはリヒャルトシュトラウスが作曲した「祝典前奏曲」によって行われています。
内部には大ホール、モーツァルトホールそしてシューベルトホールと3つのホールがあり、随時コンサートが開かれています。また、このホールはウィーン交響楽団とウィーン室内管弦楽団のフランチャイズホールとなっています。
 
   



ウィーン楽友協会(Wiener Musikverein)

1812年に設立されたクラシック音楽関係者による団体で、単に「楽友協会」とも呼ばれています。正式にはDie Gesellschaft der Musikfreunde in Wienといい、直訳すると「ウィーン音楽友の会」となるのでしょうか。
建物は、テオフィール・ハンセンの設計のもと、レッセルパークに面したところに1870年に建てられたもので、大ホール、小ホールのほかに多目的ホールがあります。
大ホールはウィーンフィルハーモニー管弦楽団の本拠地となっており、ウィーン交響楽団も定期的に演奏を行っています。
   
 
   


ヨハネス・ブラームス像

レッセルパーク(Resselpark)にあるこの像は、ドイツの作曲家ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)の像で、1833年ハンブルクに生まれたブラームスは、7歳の時にピアノを習い始め、10歳のときには初めてステージに立ち、13歳のときには居酒屋などで演奏して家計を助けたといわれています。
1857年には『ピアノ協奏曲第1番』を作曲しており、1862年からウィーンに移り住み『ドイツ・レクイエム』、『交響曲第1番』続いて『第2番』、『第3番』、『第4番』を発表しています。
1889年にはトーマス・エジソンの代理人の依頼を受けて『ハンガリー舞曲第1番』と『トンボ』を蓄音機に録音したとのことで、これが史上初めてのレコーディングであるとされています。その後も多くの作品を作曲していますが、生涯親交を保ち続けたピアニストのクララ・シューマンが亡くなった1896年の翌年に63歳でここウィーンで亡くなっています。
 
   



カールス教会(Karlskirche)

1713年に神聖ローマ皇帝カール六世が、ペスト撲滅を祈願して建てたバロック様式の教会で、正面ファザードの両脇には、ローマのトラヤヌス帝記念柱にヒントを得て造られたという、全面に彫像の彫られた円柱が特徴となっています。
   
          



ウィーン工科大学(Technische Universität Wien)

カールス教会の隣にあるこの大学は、1815年に設立された国立大学で、8つの学部があり、その学生数は約30,000人なっています。
この学校では、ドップラー効果を発見した物理学者のクリスチャン・ドップラー、建築家でカールスプラッツ駅、ウィーン郵便貯金局、シュタインホーフ教会堂などを設計したオットー・ワーグナー(Otto Wagner)が在籍していました。又、ヨハン・シュトラウス二世も一時期在籍していたようです。
大学ができる前のこの土地は、市民病院の貧民墓地であったようで、ウィーンで1741年に亡くなった、『四季』をはじめ500曲を超える協奏曲をはじめ多くの作品を遺した作曲家のアントニオ・ヴィヴァルデイが埋葬されていました。
   
 
   
 


カールスプラッツ駅(Karlsplatz)旧駅舎

1899年に開業したこの駅舎は、オットー・ワーグナーとヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(Joseph Maria Olbrich)の設計によりアールヌーボー様式で建てられたもので、当時としては最も近代的な建築であるといわれていました。
駅舎は鉄道が地下鉄に変わった1981年に取り壊される予定でしたが、市民たちから存続を求める声が上がって、改築の上、ウィーン美術館の一部やカフェとして利用されることとなり、地下鉄への入口となってのことれています。
   
 
        
 
 
        
3人での街歩きを終えてオペラ座の前に戻り、全員集合してアウエルスペルク宮殿に移動してクラシックコンサートの鑑賞です。  
   
 


アウエルスペルク宮殿(PALEIS AUERSPERG)

 
   
クラシック音楽の鑑賞後にレストランでツアー最後の夕食。明日はいよいよツアー最終日です。  
   
   
     トップページに戻る    オーストリア その2に戻る    ウィーン その2を見る