四十七士のふるさと赤穂城(2014年4月6日撮影)
 
日本百名城60番に選定されており忠臣蔵で知られる赤穂城は、兵庫県赤穂市にあり、室町時代の文正元年(1466年)から文明15年(1483年)頃にかけて播磨赤松氏の家臣であった岡光広がこの地に加里屋城を築城したのが始まりといわれています。その後慶長5年(1600年)に姫路藩主池田輝政の弟である長政が領主となって、赤穂城の前身である大鷹城を赤穂郡加里屋に築城。正保2年(1645年)にときの城主池田輝興の乱心により改易となり、浅野長直が入封しました。
浅野氏は入封後幕府の許可を得て直ちに赤穂城の築城に取り掛かり寛文元年(1661年)に完成、軍学者山鹿素行の意見を取り入れた城の縄張りは変形輪郭式で、本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれていて銃砲撃戦を意識した設計となっています。天守閣は計画されたものの築城以来造営されたことはなく、本丸内には天守台だけがそのまま残されています。
元禄14年3月(1701年)時の藩主浅野長矩(内匠頭)は江戸城松の廊下にて吉良義央に対して刃傷におよび改易となり、元禄15年(1702年)永井氏が入封、宝永3年(1706年)永井氏の転封により森氏が入封して、以後明治まで城主となっていました。

城は明治6年(1873年)の廃城令後に城内の建物のほとんどが破却され石垣と堀だけを残すだけとなっていましたが、昭和中期から平成にかけて櫓、門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二の丸庭園の再建が進められており、赤穂城址公園として訪れる人が少なくありません。
 

 

Google earthによる赤穂城の縄張り
 

三之丸大手橋と大手門高麗門

隅櫓
(昭和30年復元)
 
    
平成8年に復元された大手門枡形  
   
大石内蔵助邸(国史跡指定)
赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助良雄の一家が三代にわたり住んでいた大石屋敷の正面長屋門で屋根瓦に双つ巴の大石家の定紋がついています。
 
    
片岡源五右衛門高房宅跡
藩主浅野内匠頭の側用人として仕え、刃傷後に田村邸で主君が切腹する際に家臣としてただ一人最期の目通りをしたといわれている。討ち入りの際は十文字槍を用いて戦った。
 
   
大石神社
吉良邸に討ち入りをした赤穂浪士を祀る神社で、江戸時代においては表立って顕彰することはできなかったが明治天皇が高輪泉岳寺に勅旨を遣わした以降の明治33年に創建されたものです。参道の両側には大石内蔵助を始め志士の石造が立ち並んでいます。

観光客を入れないで撮影しようとしましたが訪れる人が多いため断念。
 
   

本丸門

本丸門枡形
 
 
平成8年に再建された本丸櫓門  
   
本丸大池泉
昭和59年の発掘調査で全容が判明、当時の姿に復元された大名庭園で平成14年に国の名勝に指定されています。(奥に見えるのは本丸櫓門)
 
   
 
天守台(左)と天守台から見る本丸御殿跡(右)  
    

刎橋
(はねばし)門跡

刎橋門からの風景
 
   
 
平成8年復元された本丸厩口門(左は本丸側、右は内濠側から撮影)  
   
大石頼母助の屋敷跡
二の丸にあるこの屋敷は大石頼母助(大石頼母助良重)の屋敷を調査発掘した結果に基づいて平成21年に再建されたもので、頼母助は赤穂浅野家筆頭家老の大石良勝の次男として生まれ、甥大石内蔵助良雄の後見人となった人で、主君長矩公が最初の勅旨饗応役に任ぜられたときは江戸においてその補佐を行っています。
 
 
山鹿素行像
江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古 学派の祖であり朱子学を批判したことから赤穂藩お預けとなり赤穂藩士の教育を行った。大石内蔵助の師でもあります。
なお忠臣蔵の映画、ドラマ等で大石内蔵助が討ち入りの際手に持った太鼓を打ち鳴らしており、これが「山鹿流の陣太鼓」といわれていますが、実際には山鹿流の陣太鼓は
存在せず創作のようです。
 
   

二の丸庭園
 
 
        
赤穂城の近くには四十七士の住居跡や絶景ポイントの赤穂御崎灯台等がありますが、ツアーでの観光でわずか1時間の滞在でまわることができず、残念ながら又の機会に訪れようと思います。  
    
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