鹿児島街歩き その1

昭和41年に一人旅で九州を訪れ、そして、昭和50年の12月に訪れて以来となる3度目の鹿児島。その時の写真はフィルムで撮影しましたが、終活が近くなった現在一枚も残っていません。45年ぶりの鹿児島です。
 
 
 


街歩きは鹿児島市内を走る市電・市バスそして市内の観光地を循環するシティービューと呼ぶバスを利用して行います。一日乗車券と二日乗車券がありますが、一日乗車券で600円。何回乗り降りしても同じ金額ですから大変お得です。
 
      
 
   
  鹿児島中央駅

平成16年(2004年)の九州新幹線開業に伴い、それまで「西鹿児島駅」という名であったのを、新駅の名の公募で決定したもので、新幹線だけでなく、在来線の鹿児島本線、指宿枕崎線も乗り入れる駅となっています。
駅ビル「アミュプラザ鹿児島」という名の商業施設があり、中には200を超える店舗が入居しており、屋上に設置された観覧車「アミュラン」も人気の観光施設となっています。
 
 
 



若き薩摩の群像

鹿児島中央駅の東口広場にある銅像で、幕末の元治2年(1865年)に薩摩藩がイギリスに派遣した薩摩藩遣英使節団に参加した19名の銅像です。
使節団は、新納久脩(中三)、五代友厚、松木弘安の外交使節団の他に、町田久成、森有礼、長沢鼎等15名の留学生が派遣され、フランス、プロイセン、オランダ、ベルギーなどを訪問し、視察を行い、2年後のパリ万国博覧会参加を協議しています。
像は、市が50万都市達成を記念して昭和57年(1982年)に建立しましたが、当時は薩摩藩出身者の17名だけとなっており、今年の残りのの2名の像が追加され派遣された19名全員の像がそろうこととなりました。
 
      
 


西郷南洲翁宅地跡の碑

西郷隆盛は、薩摩藩第11代藩主島津斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供に任ぜられ安政2年(1852年)に江戸詰めとなりましたが、この時の禄は41石余であったのことで、留守を守る家族は加治屋町にある自宅を手放さざるを得なくなるほど困窮し、この地に移ったとのことです。
この家では、慶応元年(1865年)に訪れた坂本龍馬が、西郷の妻イトに褌(ふんどし)の借用を願ったというエピソードがあるようです。

所在地:鹿児島市上之園町10-13 共研公園内
 
     
 
 
 
母と子の群像

甲突川に架かる高見橋の東側に腰賭けた夫人の像の名前が「母と子の群像」とあります。母しかいないのに何で「母と子」なんだろうと思って橋の反対側を見るとそちらには子供ばかり11人の像がありました。

母の目線が反対側にいる子供たちに向けられており、「子供たちが健やかでたくましく育ってほしい」と見つめている像とのことですが、こうやって写真を並べておくと納得しますね。
 
 
 
 


大久保利通像

明治維新の立役者の一人で、明治維新の元勲とも呼ばれ、西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎と並んで「維新の三傑」そして維新の十傑」と呼ばれた人です。
文政13年(1830年)に薩摩藩の下級藩士の嫡子として生まれ、16歳の時に藩の記録所書役助として出仕するも、嘉永3年に発生したお家騒動(お由羅騒動)に巻き込まれて罷免・謹慎処分となりました。
その後島津斉彬が藩主となった天保15年(1844年)に復職し、御蔵役となっり、勘定方小頭格、御小納戸役と出世階段を上り、文久元年(1862年)には京に上り、公武合体路線推進のため江戸に。
王政復古、戊辰戦争を主導して明治政府の樹立に貢献し、廃藩置県の実施を行い、大蔵卿となって、岩倉使節団の副使としてアメリカ、ヨーロッパ諸国をまわり、欧米先進国の政治状況の影響を受けて帰国。
初代内務卿(実質上の首相)を務め、学制、地租改正などを実施しました。
明治11年(1878年)に東京赤坂の紀尾井坂で、西南戦争に対する不満分子によって襲撃され(紀尾井坂の変)、48歳で亡くなっています。

所在地:鹿児島市西千石町1 市民広場
 
     
 
   
  歴史ロード維新ふるさとの道
市内中心部を流れる甲突川沿いにある440mほどの道で、西郷隆盛・従道の生誕地や幕末から明治維新にかけての歴史散策が楽しめます。

 
 
 
 


西郷隆盛・従道生誕の地碑

維新の三傑または十傑と呼ばれた西郷隆盛と、15歳違いの弟従道が生まれたところで、兄は「大西郷」、弟は小西郷とも呼ばれていました。
兄の隆盛は、明治維新後の征韓論で意見が聞き入れられず下野して、明治10年(1877年)9月24日に西南戦争に敗れ自決。
弟の従道は明治政府にとどまり、薩摩閥の重鎮として君臨し、内務大臣、海軍大臣などを歴任して、内閣総理大臣へ候補に推されるも兄隆盛の逆賊行為(明治22年に大赦を受けています。)を理由に断り続け明治35年(1902年)に亡くなっています。

所在地:鹿児島市加治屋町5-5
 
      
 


大山巌誕生之地碑

西郷隆盛・従道兄弟の従妹である大山巌は、天保13年(1842年)に薩摩藩士の次男として生まれ、青年時代には文久2年(1862年)の寺田屋事件で謹慎処分を受けたこともあり、薩英戦争で謹慎を解かれ、西欧列強の軍事力を目の当たりにして、韮山代官の江川英龍(通称太郎左衛門)に砲術を学び、戊辰戦争、会津戦争などで各地を転戦。
維新後は、西南戦争を始め士族の反乱を鎮圧するなどして、初の陸軍大臣となり、日清・日露戦争では日本の勝利に貢献して東郷平八郎と並んで、「陸の大山、海の東郷」といわれていました。
また、明治12年(1879年)には川路利好の跡を継いで第二代大警視(現在の警視総監にあたります。)も歴任しています。

所在地:鹿児島市加治屋町4
 
   
 
     
  「いろは歌」の歌碑
維新ロードには、薩摩藩が、武士階級の子弟の教育(郷中[ごじゅう]教育)のために創った「いろは歌」の歌碑があります。士道教育の根幹とされていました。
例えば、中央の碑の「め」では「めぐりては 我が身にこそは つかへけれ 先祖のまつり 忠孝の道」とあり、先祖を供養して親孝行を行えば、それを見ていた自分の子供も同じことをするに違いない、つまり、自分がしていることは自分のためではなく子孫のためでもあると諭しているとの意とのことです。

現代の教育でも同じようなことを教えていれば、も少し世の中いい方向に行っていたのではないでしょうか。と、思うのは私だけなのでしょうか。
 
 
   
  二つ家
維新ロードにある展示物で、西郷隆盛が住んでいた加治屋町付近の下級武士達の居住地であったとのことで、「二つ家」と呼ばれる住居形態となっていました。二つ家は、武家の格式を重んじる「おもて」と日常生活で必要な台所などの「かなえ」とに別れ、樋(て)の間で繋がっていました。屋根は二つありますが、中の部屋は人続きという特徴があります。
 
 
 
  


大久保利光誕生の地碑

明治の元勲であり、木戸孝允、西郷隆盛と並んで「維新の三傑」そして「維新の十傑」と呼ばれた大久保利通は、文政13年(1830年)こ薩摩藩士大久保利世の嫡子として生まれ、武術の際はなかったものの、学才は抜きんでていたといわれています。

所在地:鹿児島市高麗町3-1
 
      
 


井上良馨(いのうえよしか)誕生地の碑

弘化2年(1845年)に薩摩藩士の嫡子として生まれ、19歳の時の文久3年(1863年)に勃発した薩英戦争で初陣となり、沖小島砲台の警備に就きました。この戦いでは、英軍の砲撃で全ての砲台を撃破され怪我を負うものの、その破壊力に魅了され、治癒に励んで完治と同時に薩摩藩の海軍に入隊して船乗りとして再出発したとのことです。
その後、戊辰戦争、阿波沖海戦、函館戦争と歴戦を重ね、西南の役では官軍に属しており、日清・日露戦争では佐世保、横須賀、呉の鎮守府司令長官を歴任し、元帥海軍大将迄昇りつめています。
元帥に任じられた際には陸軍大将となった寺内正毅の推挙にるものだとの誹謗中傷を受けたものの、一切弁明することなく晩節を汚さず昭和4年(1929年)85歳で亡くなっています。

所在地:鹿児島市高麗町2-6
 
 
     
 
 


島津斉彬公御陣屋跡の碑

天保山中学校があるこの付近は、当時、天保山調練場として洋式調練や砲術、騎兵、工兵などの訓練が行われたところで、嘉永4年(1851年)に藩主となって以来ここに陣屋を構え、兵を閲兵したり、各種の訓練を見学したりして、将兵の士気を鼓舞し、その育成につとめていたとのことです。

所在地:鹿児島市下荒田2-32 天保山中学校内
 
 
 
      
与次郎ケ浜の埋め立て地

与次郎ケ浜は百姓の平田与次郎が薩摩藩の命を受けて赤穂の塩田を視察し、この付近一帯約10万㎡に及ぶ塩田を拓いたことから、いつしか「与次郎ケ浜」と呼ばれるようになったとのことですが、昭和42年(1967年)には日本初の水搬送工法によって埋め立てられました。
       
 
 
 


調所広郷(通称 笑左衛門)の像

調所(ずしょ)広郷は、川崎兼高の息子として生まれ、調所家の養子となり、隠居していた前藩主の島津重豪にその才能を見出され登用され、10代藩主斉興に仕え、使番、町奉行、地頭などを経て家老職に。
当時多大な借財を抱え財政破綻寸前となっていた薩摩藩の財政を改善するため、行政、財政改革を行い、黒字に転換させたとのことですが、その手法は商人からの借金踏み倒しや密貿易に手を染めるなどもあったようで、最後は急死しており、藩主斉興iに責が及ぶのを防ぐための服毒自殺ともいわれています。

所在地:鹿児島市天保山18-5 天保山公園内
   
 



天保山公園の砲台跡

天保年間に甲突川の浚渫による土砂を積み上げた結果出来た築山が、天保山と呼ばれるようになった。
文久2年(1862年)に発生した生麦事件(生麦事件発生現場)に端を発して派遣されてきたイギリス艦隊に対して、この地に築かれていた砲台から砲撃を行い薩英戦争が勃発したところでもあります。
現在は鹿児島市の史跡として保存されています。

 
      
 
   
      
 
 


共月亭

天保山公園内にある東屋で、鹿児島市が昭和56年(1982年)に中国の長沙市と友好都市となったことを記念して昭和59年に竣工したもので、同氏から寄贈された柱や釉薬瓦、花崗岩などを用いて建てられています。
「共月」の名は「両市民が同じ月を眺め友好を深めよう」という意とのことで、毎年中秋の名月にはお月見会が催されています。
 
      
 
 
 
 坂本龍馬新婚の旅碑

慶応2年(1866年)に薩長同盟が締結された直後、仲介役であった坂本龍馬は、伏見奉行の配下によって襲われ負傷し、薩摩藩の助けにより大坂から船で鹿児島に脱出。
龍馬は前年にお龍と内祝言を挙げており、傷の養生も兼ねて二人で鹿児島を旅したとのことで、これが日本で最初の新婚旅行といわれています。

所在地:鹿児島市天保山13-15

 
 



東郷八郎誕生の地碑

弘化2年(1848年)に薩摩藩士の四男として生まれ、明治時代の日本海軍の指揮官として、日清戦争及び日露戦争では日本の勝利に大きく貢献して英雄視され、「沈黙の提督」、「東洋のネルソン」、「陸の大山、海の東郷」とも呼ばれた人で、死後は東郷神社が建立され神として祀られています。

所在地:鹿児島市加治屋町11-24
 
 
 
 

鹿児島の街を歩くと観光オブジェの時標で近代日本をつくった人たちの姿を見ることができます。

時標(ときしるべ)は市内の7ヶ所にその人たちの像と解説板が置かれています。

樺山、黒田大いに語るの碑(時標②)

安政5年(1858年)に井伊直弼が大老に就任し、将軍継嗣問題で薩摩藩主島津斉彬を含む一橋派と激しく対立し、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されるという事件が募発しています。
像は、薩摩藩士の樺山資紀と黒田清隆が藩そして日本の将来について語り合っているところとのことです。
左の像の樺山資紀は、維新後、第3代警視総監、海軍大臣、初代台湾総督内務大臣、文部゛異人を歴任しています。
右の黒田清隆は、北海道開拓長官として北海道の開拓を指揮し、第2代内閣総理大臣、逓信大臣、枢密院議長などを歴任しています。

所在地:鹿児島市西千石町17-3
 
     
 


黒田清輝、桜島の噴火を描く(時標③)

慶応2年に薩摩藩士の子として生まれた黒田清輝(くろだせいき)は、叔父であり子爵であった黒田清綱の養子となって上京。平河学校(現 麹町小学校)、二松学舎、共立学校(現 開成中学・高校)、東京外国語学校(現 東京外国語大学)を経てフランスに。
当初は法律の道に進む留学でしたが、パリで画家達に出会ったことから方針転向し、ラファエル・コランの指導を受け、その作品はフランス国内の展示会で入選し、アメリカ経由で帰国して美術教育者として活躍していました。
大正3(1914)年1月に鹿児島に弟子の山下兼秀と共に滞在していた黒田清輝は同月の12日朝からの大噴火(「大正大噴火」と呼ばれ、この噴火で桜島は大隅半島と陸続きになりました。)に遭遇し、港に向かいこの爆発の様子を主題に絵を描いたとのことです。
描かれた一連の絵は鹿児島市立美術館に収蔵されています。

所在地:鹿児島市東千石町1
 
      
 
 
 


ザビエル公園

キリスト教の布教のため天文18年(1549年)来日したバスク人の宣教師フランシスコ・ザビエルの来航400年を記念して造られた公園で、かつては明治時代に日本で最初の仏和辞典を作成したエミール・ラゲ神父が建てた教会のあったところです。
教会は太平洋戦争時に焼失してしまいましたが昭和24年(1949年)に造営されました。

所在地:鹿児島市東千石町4
 
      
 
 
 
 
 
 


公園内にあるザビエル(中央)の像とヤジロウ(左)とベルナルド(右)像

ヤジロウ(弥次郎)は、永正8年(1511年)頃から天文19年(1550年)頃頃までのキリスト教徒で、日本で最初のキリスト教徒であったといわれており、薩摩あるいは大隅の出身で、殺人を犯してポルトガル船に乗ってマラッカ迄逃れていましたが、罪の告白をするためザビエルに会い、その後洗礼を受けて「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」の霊名を授かった、日本で最初のキリスト教徒であったといわれており、ザビエルの通訳者として活躍していました。
ベルナルドについは、日本人であることはわかるものの洗礼名のベルナルドだけしか判ってっていないのことで、ザビエルに同行してその活動を支えたとのことです。
 
      
 


天文館跡の碑

安永8年(1779年)に、島津藩25代藩主の島津重豪が、天文観測や研究のために明時館という施設を建て、薩摩暦または島津暦と呼ばれた暦を作ったところで、その後この日のある通りは「天文館通り」と呼ばれるようになりました。
碑の下には当時の街の様子が描かれています。
生憎と碑は商店の店先にあり、積まれた商品がちょっと邪魔でしたけど・・・

所在地:鹿児島市東千石町15-4
 
      
 


重豪、薩摩の科学技術の礎を築くの碑(時標⑤)

天文館通りと交差する天神おつきやぴらもーる(天神おつきや商店街)の角にある碑で、天文館跡の横にあります。
右手で何かを指さしているのが藩主の島津重豪、その右わきで何やら帳面に記しているのが、初代御暦者に命ぜられた藩士の水間良実です。

「天神おつきやぴらもーる」って変な名前の通りですが、Googleマップにもこの名で示されており、単に「ぴらもーる」とも呼ばれています。「おつきや」とは「御舂屋」と書き、藩の御用米を搗くところで、この地にこの御舂屋があったことから、当時の通りの名が「御舂屋通り」となっていたようで、「ぴらもーる」は写真には写っていませんが通りはアーケードとなっていて中央部にある天蓋の形状が四角錐(ピラミッド型)であることからきているとのことです。

所在地:鹿児島市東千石町15-5
 
      
 
 
 


俊寛の碑

西本願寺別院そばの商店街の脇にある碑で、真言宗の僧であった俊寛は、後白河法皇の側近で、安元3年(1177年)に平氏打倒の陰謀に加わった罪により鬼界ヶ島に流されることとなり、この地から船に乗せられたということです。
明治時代の半ばまではこの近くまで堀があり、俊寛堀と呼ばれていました。

所在地:鹿児島市中町8-9
 
      
 


龍馬、お龍と薩摩でひと休みの碑(時標④)

薩摩を訪れた龍馬夫妻は、日向山温泉、塩浸温泉、栄之尾温泉と回って傷の養生を行い、釣りをしたり高千穂に登ったりしてハネムーンを満喫したとのことですが、京に戻って1年半後の慶応3年(1867年)に、近江屋において中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺され、31歳で亡くなっています。

所在地:鹿児島市大黒町1-3
 
      
 


石燈籠

「石燈籠」と書いて、ここ鹿児島では「いずろ」と読むとのことで、市内のメイン通りの港に近い「いずろ通り」の交差点に、4基の石燈籠があります。夜には明かりが灯るようです。

所在地:鹿児島市大黒町と金生町
 
      
 
 
 


川崎正蔵翁誕生地の碑

天保8年(1836年)に小間物商の息子として生まれ、17歳の時に長崎に出て貿易に従事し、藩命で米などを扱い、鹿児島町吏、さらに大坂の蔵屋敷用達を命ぜられたのちに、貿易に着目して西洋型帆船を藩に購入させて薩摩国産物を畿内に輸送して利益を上げることに成功しました。
その後、明治4年(1871年)に上京し、2年後には帝国郵船会社の副社長に就任し、東京・琉球間の郵便航路の開始に尽力。
同社が三菱汽船と合併したのちには、政府の援助を受けて川崎造船所(現 川崎重工業)を設立しました。
翁は美術品収集家としても知られ、神戸の自宅内に日本で初の私立美術館である川崎美術館を設立しています。

所在地:鹿児島市大黒町4-3
 
      
 
   
 
 
 
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