リガ(Riga)歴史地区

ラトビア共和国の(通称は「ラトビア」、または「ラトヴィア」)の首都であるリガ(リーガと表記されることも)、バルト海に注ぐダウガヴァ川沿いにある港町で、「バルト海の真珠」と讃えられています。町の歴史は2世紀まで遡ることができるといわれ、バルト海、ダウガヴァ川を利用して交易だけでなく漁業や畜産の拠点として栄えてきました。13世紀末にはハンザ同盟に加盟して更に発展を続けていましたが、繁栄することによった侵略の危機にさらされ、ポーランド・リトアニア共和国、スウェーデン王国そしてロシアと次々に支配されてきました。
1918年に第一次世界大戦が終結した後にラトビアは独立を宣言、「ラトビア第一共和国」の首都となりましたが、第二次世界大戦になるとソ連そしてドイツの占領下となり、多くの市民が強制収容所或はシベリアに送られたり処刑され市民が3分の1になるまで激減したとのことです。第二次世界大戦後はソ連の支配下となりましたが、リトアニア、ラトビア同様に独立運動が展開され、1991年9月6日にソ連から独立した際に首都として返り咲きました。
 
 



昨日泊まったリガのホテルは、カウナス同様に町の中心部から離れています。
バスが旧市街に近づきダウガヴァ川に架かるバヌシュ橋を渡る際には、町の斬新なた建物が見えだしました。
左の写真はスゥエーデン銀行、中央の建物は、ラトビア国立図書館、右端の塔は、ダウガヴァ川の中州に建てられていて、町で一番高い建築物の、リガラジオ&テレビタワーで、高さは368.5mあます。

川の中州に建てるなんて、地震の多い日本では考えられないことです。
     
 
 



クロンヴァルダ公園(Kronvalda Parks)のそばでバスを降り、旧市街の観光スタートです。
リガ歴史地区として、1997年にユネスコの世界遺産に登録されている旧市街は、ハンザ同盟時代の建物が多く残されており、ロマネスク様式、ゴシック様式そしてバロック様式の建物が多く混在して残されています。
このように多くの古い建物があるのは、ソ連時代は町の再開発が行われなかったことが原因であり、「バルトのパリ」とも呼ばれる所以でもあります。

右の写真は、公園前の交差点にあるカフェですが、建物の屋根の中央部が少し波打っていますので、かなり古い建物と思われます。
   
       



旧市街のエリザベテス通り(Elizabetes iela)やアルベルタ通り(Alberta Iela)には、「ユーゲントシュティール建築群」と呼ばれる19世紀末から20世紀にかけて建築されたアール・ヌーボー様式の建物が多く残されていますが、訪れたときは、修復中の建物が多く、建物全体または一部に、足場が組まれたり、覆いが掛けられていて、写真を撮るにはちょいと残念なものとなりました。
おまけに相変わらず路上駐車している車が多く、建物全体を下から撮ろうと思っても、車が邪魔で撮れません。ヨーロッパの特徴でしょうか。
右の写真は、20世紀のはじめにリガの市長を務めジョージ・アーミステッドの胸像で、図書館、博物館、病院など多くの建物を建てリガの町の発展に寄与した人です。
   
 
       
 
   
 
 
     
 
   
 
   



自由の記念碑

旧市街近くの自由大通りにある自由の記念碑広場に建てられているこのモニュメントは、1918年から1920年にかけてのラトビア独立戦争の犠牲となった兵士に捧げるため1935年にに建立されたものです。
バスの中からの撮影ですので、映り込みがあります。
   


ラトビアンライフル部隊像

市庁舎広場にあるこの像は、ソ連占領時代に、レーニンの護衛についていた、ラトビアライフル部隊の兵士の像で、赤煉瓦で造られ外套を纏った姿で立っています。
 
 
   
 


市庁舎(左)と聖ロランド像

旧市街の中心である市庁舎広場には、第二次世界大戦の際に破壊され、2003年に再建された市庁舎が立っており、中には市議会の会議場も併設されています。
広場の中央には、リガの守護聖人である聖ロランドの像が建てられています。
 
 
   
 


ブラックヘッドハウス

市庁舎広場でひときわ目立つ階段状の屋根を持ったこの建物、ハンザ同盟時代の1334年にギルド会館として建てられたもので、第二次世界大戦時に破壊されて、2001年に再建されたものです。
現在は、コンサートホール、パーティ会場などとして用いられています。
建物は申すことが面面の左側までありますが、ちょうど逆光の時間帯、やむを得ず右側半分だけ撮影。それでも光が入っています。
   
 
   



ブラックヘッドハウスの建物の時計の下には、ハンザ同盟の4大都市の紋章があります。
紋章は左側からリガ、ブレーメン、リューベック、ハンブルクとなっています。
 
 
 


聖ぺテロ教会
 
13世紀のはじめに建てられたルター派の教会で、高さが123mある鐘楼は、17世紀にはヨーロッパ一の高さを誇る木造の塔でしたが、1721年に落雷により焼失。
1764年に再建されたものの第二次世界大戦中の1941年に爆撃で破壊され、20世紀の後半に再々建されたものです。
   


ブレーメンの音楽隊

教会の横に置かれた「ブレーメンの音楽隊」のモニュメント、何でここにブレーメンの音楽隊の像があるのと思って調べてみると、ここリガは、ドイツのブレーメンと姉妹都市の提携をしているとのことで、ブレーメンから贈られたものです。
 
   



聖ヨハネ(ヤーニャ)教会

13世紀の創建となるこの教会、16世紀に赤煉瓦造りのゴシック様式で再建されています。
15世紀には、教会を災いから守るため、二人の修道士が自ら壁の中に幽閉され、食料や飲み水を壁に設けられた穴を通じて施しを受けたといいわれています。
19世紀に改修工事を行った際に、壁に空間が見つかり、中から彼らの遺体が見つかったとのことで、現在ではその場所に十字架型の穴が設けられています。
 
   
     
 
ワインバーの立体看板、栓抜きはコルク栓でしょうか
 
  屋根から大きな庇が出ています。昔はここにクレーンをつけて荷物を運びこんでいたようです。   ヨーロッパの町は石畳の道が多いですが、この道は結構古いようで、凸凹が激しく下手をすると足を引っかけ転んでしまいそうです。   等身大の藁で造られた客寄せ人形

 
 
   
   


ワグナーが住んでいた家

リヒャルト・ワグナー通りと名付けられいる道に面しているこの建物、現在は「ワグナーホール」と名付けられていてコンサートホールとなっていますが、1837年から約2年間作曲家のワグナーが住んでいました。
壁にあるプレートには、1842年にフランツ・リスト、1844年にクララ・シューマン、1844年にアントン・ルビンシテイン、そして1847年にエクトル・ベルリオーズが来たとあります。
          
     


大ギルド(左)と小ギルド(右)

リーヴ広場に面して建てられているこの建物は、ハンザ同盟華やかしころに、ギルドの商人たちの集会所として使われていましたが、現在はいずれもコンサートホール、会議室などに利用されています。
 
    
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ネコの家
リーヴ広場に面したところにあるこの「ネコの家」の主人は裕福なラトヴィア人の商人でしたが、隣にある大ギルドへの入会を希望しても、ドイツ人でないと入会できないと断られ、その腹いせにギルドにお尻を向けた猫を屋根の上に設けたといわれています。その後、この商人は入会を受け入れられたので、現在のように猫の向きを反対にしたとのことですが、当時のラトヴィアはドイツ人中心の町となっていたので、これに対する反発もあったのではとも言われています。
 
 
 

火薬塔(左)と旧市街の城壁(右)

右の写真は、ラトビアで唯一残っている14世紀に造られた火薬塔です。
スウェーデン王国とポーランド・リトアニア共和国との間で発生した戦いに巻き込まれて、1621年にスウェーデン軍により破壊され、1650年に再建されました。
塔は高さが25m、直径20m、壁の厚みは3.5mあり、壁にはソ連軍によって撃ち込まれた砲弾が今でも残っています。
現在塔の中はラトビア戦争博物館として利用されており、ラトビアの独立に至るまでの歴史資料が展示されています。
右の写真は、火薬塔の反対側に残されている城壁で、リガが要塞都市であった時の名残となっています。
 
           



スウェーデン門

リガにただ一つ残っているスウェーデン統治時代に造られたかつての城門で、1698年に城壁を利用して住宅が造られた際に設けられたものです。城門のそばにスウェーデン軍の兵舎があり、兵士たちがよく利用していたことからこの名がついたとか。
当時リガの住人たちは他国の人との接することを禁じられていましたが、若い娘が兵士と恋に落ち、密会を重ねていたところを発見され、壁の中に埋め込まれて処刑されたという言伝えがあり、夜中にこの門を通ると、娘のすすり泣きが聞こえるといわれています。現在では、この門を潜ったカップルは幸せになるといわれています。
門の脇には何故か大砲が置かれています。
 
 
   



リガ城

ダウガヴァ川のそばに建てられているこのお城は、リヴォニア騎士団との戦いに敗れたリガの市民たちが、騎士団の城を破壊した代償として14世紀のはじめに建てさせられたものです。
城の建造後も市民との間で抗争は続き荒廃して16世紀のはじめに再建され、その後騎士団が消滅した後はスウェーデン軍、ソ連と支配者が変わって、増改築が行われ創建当時の面影は全くありません。
ラトビアが独立した後は、北側部分がラトビア歴史博物館、南側が大統領官邸として用いられています。
 
       
 
   
 


三人兄弟の家

リガの典型的な建物で、15世紀から17世紀末に建てられたものです。
右端の建物は、15世紀に石造りで建てられたリガ最古の石造り住宅で、階段式の切妻屋根とゴシックの壁龕(「へきがん」と読み、古典的建築意匠の一種です。)で装飾されています。
中央の建物は、オランダのマニエリスム様式の17世紀に建てられたものです。
左側の建物は17世紀末に建てられたもので、ゴシック様式の破風となっており、他の二軒に比べると幅の狭い建物です。
生憎と逆光となっており、光線が入っていますが正面での撮影ができず、チョイと残念です。
 
 
        
 
ドーマ広場(Doma Laukums ドゥアマ広場とも呼ばれています)
左はラジオ放送局、右は証券取引所美術館 
 
 
 

 リガ大聖堂

13世紀のはじめに、アルベルト司教の下、リヴォニア帯剣騎士団によって建てられた聖堂で、5世紀に渡って増改築が繰り返され、ローマ様式、初期ゴシック様式、バロックおよびアールヌーボー様式が融合した形となって下り、中世に建てられた大聖堂としては、バルト三国の中で最大規模のものとなっています。。
聖堂内のパイプオルガンは、1884年に設けられたもので、6768本ものパイプで造られており、世界で4番目の大きさのパイプオルガンです。
毎日12時には演奏が行われており、、「リガ大聖堂のパイプオルガンを聴かずして、リガに来た意味がない」といわれていて、我々ツアー客も3曲の演奏を聴きました。
 
 
   
   
 
パイプオルガン   古い銅製の風見鶏    聖堂内のステンドグラスはリガの歴史が描かれています。
 
   



リガ大聖堂前の広場にあって、「1991.GADS BARRICADES」とあるこの記念碑、1940年からソ連の占領下となり、ソ連に併合されていたバルト三国の国々が独立運動を展開、1991年1月にソ連が隣国リトアニアに侵攻し、「血の日曜日事件」が発生。
ここリガでも独立運動で、ドーマ広場にバリケードが作られ、多くの人が集結し、1月20日にソ連軍の攻撃で犠牲になっており、この碑はそれを記念している碑です。
 
   
 
    
リガ旧市街の観光を終えて市内レストランで昼食をとった後の午後2時、次の目的地であるルンダーレ宮殿に出発です。
 
 
       
       
   
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