ヴィリニュスとトラカイ城
 
 
ヴィリニュス

バルト三国では南側に位置しており、唯一海に面していないリトアニア共和国の首都ヴィリニュス、13世紀にはの初代リトアニア大公国の国王ミンダウガスの居城の一つとして城が築かれており、一時はロシアの一部やポーランドまでその領域が拡がり、ヴィルナ川(ヴィリニャ川とも呼ばれます)ネリス川という二つの川に守られたヴィリニュスの街は、公国の統治・防衛に適していることから発展を続け16世紀には城壁も整備されました。
その後リトアニア公国はポーランド・リトアニア共和国となりましたが、ロシアやザクセン公国による占領やペスト大流行、そして度重なる大火によって衰退し、18世紀末にはプロイセン、ロシア、ハプスブルク君主国によって三分割され、ロシア帝政の支配下となったヴィリニュスの城壁は破壊されるに至りました。
20世紀に入ってからの第一次世界大戦ではドイツ帝国の支配下となり、独立を宣言するもののポーランドのポーランドの支配下に留まることとなり、1919年に勃発したポーランド・ソビエト戦争では街は戦いの場となっています。
第二次世界大戦がはじまると、ナチス・ドイツに占領され、当時ヴィリニュスの街の住民の3割ほどを占めていたユダヤ人は迫害を受けて、強制連行の上隔離されるか虐殺されています(リトアニアにおけるホロコーストではリトアニアのユダヤ人約20万人が虐殺されたといわれています。)。街は1944年にはソビエト支配下となり、ここでもナチス・ドイツに対する抵抗組織の人たちやインテリ階級の人たちが逮捕・強制連行され、人民の敵として一般市民まで含めて数十万人がシベリアや中央アジアに送られたといわれています。
1990年にはソビエト連邦共和国からの独立を宣言するも、1991年1月にはゴルバチョフ政権が独立阻止のため『血の日曜日事件』と呼ばれる市民の虐殺も起きており、8月に発生したソビエトクーデターで漸く独立が承認され、ヴィリニュスがリトアニアの首都と認定されました。
現在街の人口は約60万人で、欧州域では最大級の広さがある旧市街は、1994年(平成6年)にユネスコの世界文化遺産に「ヴィリニュス歴史地区」として登録されています。
  
     
 
 
   



ヴィリニュスで泊まったホテルは旧市街の中心部からバスで約30分ほど離れたリゾートホテル。朝起きて写真を撮ろうと思っても、周りには何もありません。
朝食後にホテルの庭を散策。額紫陽花(上左)やカキツバタ(上右)などが咲いており、蜘蛛の巣には朝霧による水滴がついていました(右)。
 
   



聖ペテロ&パウロ教会

街の旧市街から少し離れたところのレリス川沿いに建てられたこの教会は、当時の将軍パツァスが資金を提供して、17世紀後半の1668年から建設が始まり、建物外観の建設には7年間、内装には30年もの期間がかけられており、イタリアから招いた職人たちが手掛けた2000以上もの聖人、天使、想像上の獣、植物などの漆喰彫刻が施された、「バロックの街」と呼ばれるヴィリニュスを代表する建築物となっています。
 
   
 
        
 


中央祭壇

意外と質素な祭壇で、正面には「聖ペテロとパウロの告別」と名付けられた絵が飾られています。
   


ドーム屋根からはノアの方舟を模したシャンデリアが吊るされています。
 
 



翼廊には聖マグダラのマリア(右側)と、右手に鉗子(かんし)を持った聖アポロニア(左側)の彫像があります。

聖マグダラのマリアは、「罪深い女」として知られていますが、新約聖書の福音書に登場する人物で、キリストの死と復活を見届けた証人とされています。
聖アポロニアは、ローマ帝政時代のアレクサンドリアで殉死したキリスト教徒で、言い伝えによると拷問により、歯をすべて引き抜かれたか、粉々に砕かれたとなっており、歯科学や歯痛を患う者、歯に関する問題全ての守護聖人となっています。
 
   
  


ゲティミナス城

旧市街の北側の丘の上にあるこの城は、12世紀にリトアニア大公のゲティミナスによって要塞が造られたのがはじまりで、15世紀のはじめにヴィータウタスにより煉瓦造りの要塞に建替えられたものです。
残念ながら丘が浸食されて危険となり、工事が始まっいるため、現存する西側のゲディミナス塔は車窓から写真を撮るだけとなりました。
 
   



三つの十字架の丘

ゲティミナス城の傍の丘に設けられた十字架は、布教に来たフランシスコ修道会の修道士たちが、異教徒に殺されたり、十字架に縛られヴィルナ川に流された霊を慰めるために、17世紀に設けられたもので、旧ソ連時代に一度破壊されましたが、1989年に再建されたものです。
丘はヴィリニュスの旧市街が一望できる、撮影ポイントとなってます。
 
   
 
三つの十字架の丘から見るヴィリニュス旧市街とゲディミナス城のゲディミナス塔。奥には高さ326.5mあって東ヨーロッパで一番高いテレビ塔が見えます。  
   
ヴィリニュス大聖堂
 
カテドゥロス広場にあるこの大聖堂、1251年に十字軍の弾圧から逃れるためにミンダウガス王がキリスト教を受け入れて最初に建造した主教座教会で、18世紀に改築が行われて現在の姿になりましたが、正面ファサード上部にある聖スタニスラウス、聖ヘレン、聖カジミエルの3聖人の像はソ連時代に撤去されており、1996年に再建されたものです。
手前にある鐘楼は旧市街では最も古く、かつてはゲディミナス城の下の城の防衛塔として造られたものです。   
 
   
 
   
     
大聖堂内は、漆喰彫刻は施されているものの、わりとシンプルに造られています。
 
        



大聖堂のあるカテドゥロス広場の敷石に色の違うものがありますが、かつてはこの場所がゲディミナス城の下の城であったことを示しているものであり、写真の凸型の部分は見張り所が置かれていたところのようです。
 
   



奇跡のタイル

広場に一つ色の違うタイルが敷かれており、タイルには文字が組み込まれています。リトアニア語で「STEBUKLAS」となっていますが、英語では「miracle」、日本語では「奇跡」と翻訳されます
1989年8月23日に、ソ連からの独立を求めてバルト三国が、共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるため、三国あわせて200万人の国民が手を繋ぎ、ここヴィリニュスのこの地点からエストニアのタリンまで、何と600kmにも及ぶ「人間の鎖」を作って独立を勝ち取った記念となっています。後にこの活動は「バルトの道」と呼ばれています。


このタイルの上にのって、時計回りに3回まわりながら願い事をすると叶うと伝えられていて、パワースポットとして有名になっています。
 
   



ゲディミナス像

広場には、リトアニア大公国の実質的な創始者であるゲディミナス(Gediminas)の像があります。ゲディミナスは、ここヴィリニュスを公国の首都と定め、スモレンスク(現 ロシア連邦の都市)、プスコフ(現 ロシア連邦の都市)、キエフ(現ウクライナの首都)に領土を広げて公国の礎を築き、キリスト教への改宗を図って侵攻してきたドイツ騎士団に対抗して、宗教に寛容な政策をとり続け、その在位は25年にも及びました。
 
   


聖アンナ教会

聖オノス教会という別名のあるこの教会は、ヴィトゥタス大王の最初の妻であるリトアニア大妃殿下アンナのために木造建築で建てられましたが、火災で焼失し、15世紀の終わりに後期ゴシック様式で再建されており、その後改修はされているものの、建築後500年以上を経過しても建築当初の姿はほとんど変わっていないとのことで、用いられている赤煉瓦は33種類以上形の違う煉瓦が使われており、炎のような躍動感あふれる外観は、フランボワイアン(火焔式)ゴシック建築の傑作といわれています。
右側は付属の鐘楼で、19世紀になってから建てられたものです。
1812年、ロシア遠征の途中にこの地を訪れたナポレオン・ボナパルトが、「手のひらに載せて、パリにそのまま持ち帰りたい」と語ったと伝えられています。

尚、教会の後ろに見えるのは、ベルナディン教会といい、16世紀建造の教会です。ゴシック様式とバロック様式が混在して建てられており、「炎の教会」とも呼ばれています。
 
   
 


夜明けの門

16世紀のはじめに設けられた城門で、建築当初は城壁に9ヶ所の門が設けられていましたが、18世紀にほかの門は撤去されており、唯一残る城門となってます。
設けられた当初は、その位置が南に離れたメディニンカイ (Medininkai) 城やクレヴァ (Krėva) 城(現 ベラルーシ領)に続く道への門であったことから、「メディニンカイ門」とか「クレヴァ門」と呼ばれていましたが、現在の呼び方となったのは20世紀に入ってからのことのようです。
門には16世紀に入って外敵から街を守り、また、旅行者を守るため内部にチャペルが設けられており、聖母マリアの肖像は奇跡を起こす力があるといわれています。
左の写真は旧市街の外側から、右は旧市街側から撮影したもので、右端はチャペルにある聖母マリア像です。
   
 
   


杉原千畝記念碑

ネリス川沿いの新市街の一角に、「杉原さくら公園(Č. Sugiharos sakurų parkas)」と名付けられた公園があり、第二次世界大戦時に迫害を受けたユダヤ人に、本国の命に反してヴィザを発行し続け約6000人もの命を救った、外交官杉原千畝氏の記念碑があります。
記念碑は2001年に早稲田大学が建立したもので、碑のレリーフの右横には、早稲田大学からのメッセージが、日本語で書かれて嵌めこまれています。
碑文には『故杉原千畝氏は1900年に日本に生まれ、早稲田大学在学中の1919年に日本国外務省の留学試験に合格し、ハルビン学院に学び、その後外交官になった。1940年駐リトアニア共和国領事代理の時代に、身辺に迫る戦争の危機の中にありながら、必死の覚悟と信念を以て、亡命ユダヤ人約6000名に対して約1ヶ月にわたって査証を発給し続け、彼らの命を救った。これは戦争時における輝かしい人道的行為として歴史に記憶され、永く語り継がれるべきものである。
ここに早稲田大学は、交友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立するともに、リトアニア共和国との学術交流による友好関係がさらに深まり花開くことを祈念して桜の木を植樹するものである。』と書かれています。

公園にはその名の通りに多くの桜の木が植えられていて、治には日本と同じように桜が見事に咲いているようですが、訪れたのは5月も下旬で既に葉桜となっていました。
 
   

                     ニセアカシア
 
   
ヴィリニュスの観光を終えてトラカイ城に向かいます。途中少し雨は降りましたが、日頃の行いが良いのでしょうか、トラカイに着いた時は青空が見え始めました。

トラカイ城
 
『小さなマルボルク城』とも呼ばれるトラカイ城(「トラカイ島城」あるいは「トラカウイ城」とも)は、ヴィリニュスの西30kmほどの所にあるガルヴェ湖にある21もの島のひとつに建てられており、湖畔のリゾート地であるため訪れる人が少なくありません。
城は、14世紀の後半に、当時リトアニア大公国の君主であったケストゥティスの命により、最初の城が建てられ、息子のヴィタウタスによって1409年頃に竣工したとされています。この間、城はドイツ騎士団からの攻撃を受けたり、リトアニア大公の座を巡る権力闘争に巻き込まれるなどしています。
1410年には、ドイツ騎士団の間でグルンヴァルドの戦いが発生し、これを打ち負かしたものの、軍事的要素は衰退して住居としての機能が増えて、内部の装飾が施されたといわれており、当時作られたフレスコ画が今でも残されています。17世紀にはロシアの帝国前身であるモスクワ大公国との間でた戦いが始まって城は荒廃、その後再建されることなく放置されていましたが、第二次大戦後の1961年に修復が完了し、当時の姿を取り戻しました。
 
 
 
   
 


湖の中にある島に建てられた城ですが、湖は天然の外濠となっていて、更に内濠が設けられています。城の中には跳ね橋を渡ってはいることとなります。
 
 
   



城の前庭には、一時牢獄として用いられていたこともあり、当時用いられていたものでしょうか、ギロチン、恥の檻、水責め用の檻などが展示されています。
 
   
 


門を抜けると中庭になりますが、木製の回廊が設けられており、城の内部を通らずに上層階まで行くことができるようになっています。
右の写真の一番高い所は天守となっていたようです。
 
 
       

 
 
ケストゥティスのステンドグラス
 
ヴィタウタスのステンドグラス
 
ヴィタウタスの胸像
 
       
当時の城の様子を描いたもののようですが、トラカイ城の奥には、14世紀に建てられたもう一つの城、半島の城(Trakų Pusiasalio Pilis)が描かれています。  
 
観光を終えてバスに戻る際にはまた雨が、ラッキーです。  
 
 
 
 
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